予定論に関する質問への回答
1.
聖書にははっきりと「救われる人は永遠の昔に予定されている」と書いてあります。
「この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行なう方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。」(エペ1・11)
これが宗教改革者たちの主張でしたが、後にアルミニウスという神学者が現れ、「救いは半分、人間側の働きによる」と唱えました。
救いが実現するのは「神と人間の共同作業だ」と。
これは人間の側に栄光を残す野心の現れです。
聖書では、「人間はアダムにおいて罪を犯し、死人となり、救いに関しては徹底的に無力になった」と教えており、人間の側に栄光は一切ありません。
2.
イエスの言葉ではないから信じる必要がないという判断を下したら、では、あなたの信仰はキリスト教ではありません。キリスト教は、聖書が聖霊によって記されたと信じ、イエスの言葉ではなくても、聖書66巻を権威として考えるからです。
3.
予定とは「イエスを主として礼拝する者となるように予定された」ということを意味します。ですから、神に従わず、悔い改めることをせず、自分の意志を通して一生を終わる人、つまり、イエスを主としていない偶像礼拝者は、はじめから予定されていないということになります。ペテロもユダも裏切りましたが、ペテロは悔い改めてイエスに立ち返り、ユダは悔い改めずに自殺しました。これは、ペテロが予定され、ユダが予定されていなかったことを示しています。イエスは「あなたの信仰がなくならないように祈ります」と言われ、ペテロが信仰から落ちないようにすると約束されました。しかし、ユダにはそのように言われませんでした。予定されている人は、神の守りがあるので最後までイエスを主として礼拝し続けますが、予定されていない人はそれがないので、イエスを捨てます。
2017年9月27日
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