霊的な人とは?


「人間の心は神の義からあまりにも遠く離れているので、不敬虔で、倒錯的で、邪悪で、不純で、恥辱に満ちた事柄しか考えず、望まず、企てない。心が罪の毒にどっぷりと浸かっているため、その吐く息は不快極まりない。たとえ時折善を行う者がいたとしても、彼らの精神は依然として偽善と奸計にくるまれており、心は、その内側の堕落によってがんじがらめに縛られている。」(John Calvin, Institutes of the Christian Religion, ii.v.19 (Philadelphia: The Westminster Press, 1960), p.340.)

われわれの「肉」は徹底的に堕落しているので、神の国を願うことができない。

われわれの中で、本質的に(=肉の部分で)そんなものを期待する人はいない。

いや、むしろ神の国を嫌っている。

自分が心の奥底でやりたいと思っていることができなくなるから。

なぜクリスチャンの間でも「神の法」や「神裁政治」がこれだけ嫌われるのだろうか。

彼らの「肉」が本質的に神に敵対しているから。

では、神の国を期待する人はなぜそのようにできるのか。

「神の霊」に支配されているから。

クリスチャンの中には「二つの原理」が働いている。

「肉の原理」と「御霊の原理」。

これらは互いに対立している。

肉の思いと御霊の思いは互いに相反することを考え、願っている。

肉が強くなると、神の国なんてどうでもいいと考え、御霊が強くなると、神の国を求めるようになる。

御霊の人とは「御霊の思いが肉の思いよりも強く働いている人」である。

「御霊の思い100%の人」などイエス以外、この世に存在しない。

神がわれわれに望んでおられるのは「御霊の思い100%の人」つまり「御霊に完全に満たされた人」になることである。

よく「あの人は霊的な人だ」という評価が下されることがあるが、もし本当に霊的な人であれば、自分の全人生を使って神の国を求めるだろう。

そのためなら何でもするだろう。

「自分の利益、名誉、プライド、持ち物、家族、教会・・・なんてどうでもいい!神様、あなたが栄光を受けてください!神の国が世界中に広まるように!イエスを信じる人々が世界中に満ちますように!」と言えるはずである。

神の義と神の国を求めない霊的な人など存在しない。

それは単なる「スピリチュアル系の人」である。

物質的な事柄からできるだけ離れて、瞑想にふけるとか。

本当に霊的な人ならば、ひたすらに聖書的な教理を求めるはず。

「聖書の裏付けがあるかどうかなんて関係ない。人が集まるかどうかが問題だ」というような教会成長学的な人は、霊的でも何でもない。

聖書に基づかない教えで教会を大きくしても、それは神の国ではなく「人間の」国である。

神はわれわれが「皮一枚で内部を全部くりぬかれ、内側に御霊しかない人」になることを望んでおられる。

教会や教団の伝統に縛られて本質からものを考えられない人は、まだ内側に肉がいっぱいつまっている。

 

 

2018年10月12日



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