プレ・ミレの決定的な間違いは、聖書の裏付けがないことである。
これから大患難時代がやってくるという。
すでに述べたように、大患難は紀元70年以前に起きた。
まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。(マタイ24・34)
この聖句は、プレ・ミレを徹底的に粉砕する。
時代の限定をはっきりと示しているからである。
今のプレ・ミレ陣営は「預言の二重性」という教理によってこの問題を回避している。
つまり、「この大患難の預言は、一度紀元70年以前に成就し、もう一度終末の時代に成就する」と。
このような解釈は「預言の私的解釈」であって、絶対にやってはならないことである。
それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。(2ペテロ1・20)
「これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。」とイエスが言われたら「大患難は『この時代』に起きた」のである。
それ以外の意味を「読み込む(eisegesis)」ことはできない。
イエスの再臨が紀元70年以前に起きたことを示す箇所はほかにもある。
まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」(マタイ16・28)
「ここに立っている人々」が「死を味わわない」うちに「人の子が御国とともに来る」ことが起きると、イエスは言われた。
イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」
イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」(マタイ24・1-3)
プレ・ミレの人々が「終末」と解釈しているマタイ24章は、紀元70年に関する教えである。
「あなたの来られる時や世の終わり」を終末と解釈してはならない。
なぜならば、3節で「あなたの来られる時や世の終わり」は「そのようなことが起こる」時を意味するからである。
「そのようなこと」は何を意味するのか。「宮」の「石がくずされずに、積まれたまま残ることは決して」ないこと、つまり、神殿崩壊である。
そして、この神殿崩壊は、どの神殿のことを指しているのだろうか。
プレ・ミレの人々は、「終末に再建される神殿だ」という。
しかし、どこにもそのようなことを示唆する箇所はないのである。
むしろ、イエスはこの神殿を「当時建っていた第2神殿」を指すと明示しておられる。
「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます。」(ルカ21・6)
ルカの平衡箇所であるこの節では、「あなたがたの見ている」という限定語句がついている。
「あなたがた」とは弟子たちである。神殿とは「弟子たちが見ている神殿」であって「終末に再建される神殿」ではない。
これで、プレ・ミレの「再臨未来説」は徹底して粉砕された。
プレ・ミレには、聖書のバックアップがない。
再臨は、紀元70年の神殿崩壊を意味するのであって、これから起きる(とプレ・ミレの人々が言う)終末の出来事ではない。
新約聖書の手紙において弟子たちが述べている「終わりの日」は、紀元70年の神殿崩壊を前提として語られた言葉であって、21世紀に住むわれわれに向けて語られた言葉ではない。
それゆえ、「これからまもなく終末が来る。携挙が起きて、その後、大患難時代がやってくる」というディスペンセーション主義のプレ・ミレの教えには、正当性はまったくない。