なぜ神はわれわれを違和感のある環境に置かれるのか


ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。(1テモテ2・8)

1.

怒りや論争は、無駄である。

言うべきことは言わなければならないが、あくまでも頑固にそれを拒否するならば、神に委ねるべきである。

「きよい手を上げて祈る」とは、神を審判者として呼び出すことに等しい。

神を審判者として呼び出したら、最高裁に上告して結審されたように「それ以上、何もできない」のである。

神がいずれ両者の間を裁いて結果を見せてくださる。

その結果は、最善の結果であるので、その後、われわれにはすべきことはなくなる。

それでも不満が残って、相手を徹底してやっつける人は、自分が損失を被る。

たとえば、路上でクラクションを鳴らされたとする。

むかついて、車を降りて相手を引きずり出して殴り合いの喧嘩になった。

警察が来て、相手とともに警察署につれていかれて、1週間くらい拘束される。

その間の損失はどれくらいだろうか。

肉体的な怪我や、経済的損失だけではなく、名誉も失うかもしれない。

自分が我慢し、神に祈って委ねれば、このような無駄なことをすべて避けることができる。

相手がギャフンというまで執拗に食い下がる人は、その間、奴隷である。

誰の奴隷か。相手の奴隷である。

相手の一挙手一投足が気になってしかたがない。

縛られているのである。

自分は感情の自由を発揮しているつもりかもしれないが、客観的に見れば、奴隷状態である。

神に委ねて、裁きを待つことができない人は、他者の奴隷なのである。

2.

われわれは、合わない環境で仕事を続けなければならないことがよくある。

何年も、場合によっては、何十年も、不快な環境で暮らさなければならないかもしれない。

自分に合わない仕事をさせられたり、人と行動を共にしなければならないかもしれない。

なぜこのような目にあうのか。

自我を崩壊させるためである。

神は、フラストレーションのたまる環境に置くことによって「自分の野心」や「自分の名誉」「面子」「利益」などと縁切りをさせてくださる。

説明のつかない人との出会い、出来事、仕事がやってきたら、それは、「地上との縁切り」をさせるためだと考えるべきだ。

「地上にあるものを愛さなくなるため」である。

「地上にあるものにこだわらなくなるため」である。

カルヴァンは「この世を軽視できるようになったら、神の学校において大いに進歩したのである」と言った。

「自分の利益や面子にこだわってそのためならば裁判も辞さない」というようなメンタリティーは、クリスチャンのそれではない。

イサクは、自分が掘った井戸を他人に奪われた。

このようなことを何度も経験した。

自我を守ることから離れることによって、彼は真に神の国を求めるようになった。

「本音を言うと、神の国などどうでもいい」という人は、まだ「世離れ」ができていない。

そのために、神は「違和感のある環境にわれわれを置かれる」。

 

 

2019年7月15日



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