自然理性に頼る人の前には大きな落とし穴がある


1.

「内なる声」に聞け、とか、「自然に耳を傾けろ」とか。

「科学を探求すれば神がわかる」とか。

一面の真理である。

しかし、こういう「下からの探求」に大きな落とし穴がある。

なぜならば、エデンの園におけるアダムの失敗の原因は、「下からの探求」を「上からの命令」の上に置いたことにあったから。

アダムとエバは神から「園の中央にある実を食べてはならない」という「上からの命令」を受けていた。

しかし、「見るによく、食べるのによさそう」という「下からの探求」による判断で食べてしまった。

われわれの自然理性を究極に置く立場は、それゆえ、異端である。

科学を探求して得られる結論を究極に置いてはならない。

「宇宙を調べていくと、どうしてもビッグバンから万物は生成されたと考えざるをえない」といくら科学者がいっても、信じてはならない。

「私は、夢でお告げを受けました。アセンションがあります」という言葉も信用してはならない。

科学的な知識や、夢、お告げ、霊的体験、預言、異言、人間の言葉、社会の常識、風習、…

こういったものは、究極の権威ではない。

神の言葉こそ究極の権威である。

だから、あらゆるものは神の言葉によってチェックしなければならない。


2.

「神は世界が創造される前から、救われる人と滅びる人を予定されたなんてひどすぎる。自分の責任でないことでなんで滅びなければならないの?」という言葉は、人間の目から見れば、きわめて理に適っている。

人間から見れば、滅びに予定されている人は生まれてきたことそのものが迷惑である。

しかし、世界は、神によって作られ、神のために「のみ」存在するのであるから、われわれは文句を言えない。

われわれは創造主ではない。

われわれは造られた者である。

しかも、「理由なく滅びに予定されているなんてひどい」とは言えない。

なぜならば、その人は、「罪のゆえに滅びるから」である。

神は罪を犯していない人を滅ぼすことはおできにならない。

人間が滅びるのは、もっぱら自分が犯した罪のためである。

「あんなに素晴らしい生涯を送った人が地獄に行くなんてキリスト教はひどい」というだろうか。

その人は、完璧な人生を送ったか。

完全無欠の生活をしたか。

一点の罪でも、神は許容できない。

なぜならば、神の創造した世界では、一点の反逆も罪も許されず、「責任は必ず取らされる」からだ。

3.

法を定められた神は、その法秩序を完全に維持しなければならない。

なぜならば、一つの違反でも見逃すならば、法秩序が崩れることをよしとされたということを意味するからである。

一点の罪によって法秩序が乱れたままでいることを許すことは、被造世界全体の崩壊を見逃したことになり、神は神ではなくなる。

絶対者が絶対者でいることを維持するために、罪を許容することはできない。

そのために、神は、すべての罪の責任をひとり子であるキリストの上において、裁かれた。

身代わりの犠牲によって、すべての人の罪は処理された。

自分の罪の責任のための犠牲を祭壇に捧げる人だけが赦される。

つまり、イエス・キリストを信じる人だけが赦される。

人々が祭壇に犠牲をささげている間、外にいて、傍観している人は、赦されない。

なぜならば、その人には犠牲がないから。

犠牲をささげなかった人の罪は残り、その罪を永遠の刑罰という形で支払わねばならない。

人は自分の罪のゆえに死に、永遠の刑罰を受ける。


4.

「イエス・キリストを信じなさい」というのは、特別啓示である。

一般啓示、つまり、自然を探求しても、内なる声に聴いても、このような結論は出てこない。

いくら科学が進んでも、聖書が必要であるのは、これが理由である。

「善良に生きた」ということは救いの条件ではない。

「イエス・キリストを信じた」ことこそそれである。

自然理性に頼る人の前には大きな落とし穴がある。

 

 

2015年4月28日



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