いつでもゼロに戻る用意がある


人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。(箴言29・25)

私は、これまで何度も人間関係をご破算にしてきた。

聖書的ではないと判断したら手を切ることにしているので。

もし私に借金があれば、私は人を恐れるようになっただろう。

貸主の顔色をうかがうようになっただろう。

しかし、私は借金を極力避けてきたので、誰にも何の負い目もない。

罪を犯したり、人に対して損害を与えたら、その都度悔い改めをし、賠償してきたので、引きずっている問題は一切ない。

重要なのは「御心とは何か?」である。

御心を第一に求めれば、その他のことは神がやってくださる。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6・33)

聖書的であると判断したことは大胆に主張するし、非聖書的であると判断したことは大胆に非難してきた。

それで誰かを怒らせたとしても、その怒りは怒った本人に返ってくるから、気にしない。

ネットで「あることないこと(実際は、ないことないこと)」を書かれているが、気にしない。

むしろ幸いである。

わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。(マタイ5・11)

なぜならば、天における報いが大きいからである。

喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。(マタイ5・12)

私の目標は、天でどれだけ報われるかである。

われわれは、ほとんどの時間を死後の世界で過ごす。

この地上での生活は、自分の存在する時間のごく一部でしかない。

死後、われわれは1千兆年の人生が待っている。

いや、1千兆年も、序の口である。

その後、無限の時間が待っている。

その無限の時間を天国で過ごすか、火の池で過ごすか、今の生活が決定する。

われわれがイエスを救い主として信じ、神に献身して生きるならば、その無限の時間を、大きな幸いの中で過ごすことになる。

イエスを信じなければ、無限の時間を火の池において過ごす。

これまで無数の人を殺害してきたイルミナティの人々は、無限の時間を、火の池の中でも一番熱い場所で暮らすだろう。

私は、死後、永遠に続く時間において、最高に祝福された状態で過ごしたい。

だから、イエスのために被ったののしりや迫害や、冤罪をこの上もない喜びとしている。

御言葉どおりに「喜びおどり」たくなるほどである。

この世での富、名声、地位・・・

これらは火の池において何の役にもたたない。

だから、私は、御国とその義を妨害する一切の事柄を切り捨てる。

いつでもゼロに戻る用意がある。

支援者が一人もいなくなってもいい。

積み上げた富や仕事や評判が灰燼に帰してもいい。

聖書的であることを人生の中心に置かない人は、私にとって邪魔である。

だから、ディスペンセーショナリズムやリベラルに汚染されたキリスト教界から除名されようが、村八分にされようが、何のダメージもない。

むしろ、腐れ縁から解放されるので感謝である。

 

 

2018年3月16日



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