(1)
カルトって言葉の意味知ってますか?フランスではこう定義されていますね。
1995年12月、フランスの下院(フランス国民議会)で採択された報告書『フランスにおけるセクト』は「通常の宗教か、セクト(カルト)か」を判定する国際的な指針の一つとされている。この報告書は、調査委員会の委員長の名前を取って『アラン・ジュスト報告書』ともよばれている。
この中で、セクトの本質を「新しい形の全体主義」と定義した上で、以下のように「セクト構成要件の10項目」を列挙している。
1.精神の不安定化
2.法外な金銭的要求
3.住み慣れた生活環境からの断絶
4.肉体的保全の損傷
5.子供の囲い込み
6.反社会的な言説
7.公秩序の攪乱
8.裁判沙汰の多さ
9.従来の経済回路からの逸脱
10.公権力への浸透の試み
以上の項目のいずれかにあてはまる団体をセクトとみなしている[7]
(Wikipedia―「カルト」)
1.精神の不安定化
精神を安定させることを勧めております。
2.法外な金銭的要求
したことは一度もありません。
3.住み慣れた生活環境からの断絶
住み慣れた生活環境から断絶しておりません。日本が大好きです。
4.肉体的保全の損傷
痛いのは嫌いです。
5.子供の囲い込み
囲い込めるほど子供はいません。いたとしても、囲い込んで何になるのですか?社会人として自立することをずっと主張してきました。
6.反社会的な言説
公権力に服従することを主張しています。暴力革命反対。
7.公秩序の攪乱
ローマ13章から公秩序には従うべきだと主張します。
8.裁判沙汰の多さ
一度も裁判したことありません。
9.従来の経済回路からの逸脱
みんな、普通に仕事しています。
10.公権力への浸透の試み
浸透できるほど仲間はいません。
(2)
漠然と、既存のキリスト教とは違うように「思える」から、というのであれば、それは批判者に知識がないからです。
こちらはきちんと研究史を踏まえています。
カルヴァン主義神学の知識があれば簡単に理解できます。
(3)
日猶同祖論に関しては、再建主義の中でもミレニアムだけです。
他の再建主義論者はまったくこの考えを持っていません。
私が日猶同祖論を再建主義の主張の中に含めているのには理由があります。
(i)日本や日本文化を古代の世界史の中でとらえるべきであると思うから。
なぜならば、古代世界において、神は世界に福音を届けておられたと考えるからです。
古代日本にも人間がいたのですから、伝道者が来ていたはずです。
そこで、救い主を待望させる福音がユダヤ人を通じて説かれていた。
そして、イエスが昇天されてから、使徒やその弟子たちが、待望の福音の結果を伝えにきた。
「あなたがたが期待していた救い主がついに来られ、贖いが成就しました!」と伝えた人々がいた。
そう考えてもおかしいことはありません。
なぜならば、聖書に「地の四方に御使いを遣わす」とあるからです。
(ii)
物部氏とか秦氏に関しては、彼らがユダヤ系キリスト教徒であったと信じるに足る十分な根拠があります。それについては、サイトにすでに掲示してあります。
既存の教派の人々も、同じことに気づきはじめており、私個人は、同じ意見を持つ牧師を何人か知っています。
(iii)
飛鳥氏や三神氏、つまり、月刊『ムー』関係については、日猶同祖論関係以外意見を異にしております。
超常現象やUFOその他については、私は別の見解を持っています。
(iv)
日猶同祖論は、かつては科学的根拠がないと言われてきました。それは、科学に必要な論証の積み重ねが乏しいからです。
しかし、シルクロードを通じた東西交易、遠方海上移動の可能性など、新しい知識が得られている現在、西域の古代人が日本に来なかったことを証明することのほうが非科学的でしょう。
私は、ラビ・トケイヤー氏の著作を読んで、「紀元前2世紀の旅行者が『世界のどこに行ってもユダヤ人の集団を見た』と述べている」という言葉から、ユダヤ人が古代世界において、広く旅行をしており、彼らの知識が中国まで確実に届いた証拠もあるので、日本にユダヤ人が来ていたのではないかと推測するのです。
(v)
八咫烏、もしくは、漢波羅や裏神道の知識については、これは、秦氏の集会に裏神道の高官が送った言葉を信用しています。
なぜならば、多くの点で既存の情報と共通するからです。
どの体制にも、インテリジェンスを扱う組織があります。日本における公安や自衛隊の秘密諜報組織のように。ローマ・カトリックにも、そのような集団があります。
天皇制の存続のために、彼らのような集団が存在しないと考えるほうがおかしいでしょう。
(3)
現世における祝福と呪いについては、聖書にきちんと書いてあります。
「あなたがたの間で病人や死んだ人が大勢いるのは、聖餐式を軽視したからだ」とパウロは述べています。
個人または集団の行動が、この世界において、ポジティブもしくはネガティブな結果をもたらすという考えは、聖書に無数に存在します。
私は、神の国の拡大を妨害する人間や団体に神の呪いが下ることを信じています。
これを否定したのはディスペンセーショナリズムですが、たかだか200年の歴史しかありません。
カルヴァンは、申命記講解において、この「賞罰(サンクション)」が存在することをはっきりと述べており、キリスト教の歴史においてこのような考え方は普遍的であるといえるでしょう。
(結論)
何か耳新しいからというだけで、もしくは、今の常識とかけ離れているからカルトと決めつけるのはやめたほうがいいです。