「神々」と訳すべきである2
神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」(創世記1・26)
キリスト教は、「神は複数いらっしゃる」ということを前提として成立する。
なぜならば、創世記1・26の「神は仰せられた」における、神という意味のヘブル語「エロヒム」が、神という意味の「エロアハ」の「複数形」だから。
創世記1・26は「神は複数名詞で表現されるお方である」と宣言している。
しかし、同時に創世記では「神はお一人である」とも証言している。
「仰せられた」という述語は単数形の動詞だから。
ここから「複数の神々が、単一の法人として行動される」ということがわかる。
神は「存在論的に多、法的に一」のお方なのである。
キリスト教の神は、多神教であると同時に一神教なのである。
この多神教の要素を何か悪いものであるかのように扱うことはできない。
「さあ人を造ろう」の「造ろう」は、一人称複数形である。
複数の神々が、相談して行動している。
互いに独立した神が話し合い、決定し、行動される。
世界が創造される前に、神しかおられなかった。
創造以前に、神は互いの間で社会を形成しておられた。
つまり、「社会」は究極的なのである。
創造された後に社会ができたのではなく、創造以前に社会は存在していたのである。
社会とか秩序とかグループとか合意とか・・・
複数の人格が存在しないと成立しない概念が、もともと神の存在のあり方に起源を持っており、それゆえに、究極的だと聖書は啓示している。
だから、多神は悪ではない。
多神を悪とすると、神を否定することになる。
「存在論的に神は多である」という考えを持つことに躊躇すべきではない。
「存在論的にも神は一である」と無理に考える必要はない。
「存在論的に神は一であると同時に多である」という考えは自己矛盾している。
聖書において神は、わざわざ、単数形と複数形という文法的規則を持つヘブライ語を用いて啓示されているのである。
それゆえ、神が、われわれに数的に自己矛盾するような教えを信じるように期待していると考えることはできない。
われわれは、「神は、存在論的に多である」と信じるべきだ。
では、単数形の述語が用いられているのをどう解釈すべきか。
その「多数の神々は、法的に単一体として行動される」と考えるべきだ。
会社と同じである。
会社には複数の社員がいるが、単一体の法人として行動する。
神は、法人なのである。
複数の人格が互いに契約を結んで「法的に一人」となり、活動する。
これ以外に、合理的な理解は不可能である。
2019年12月1日
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