「祈ったら北朝鮮がこうなった」というと、「そういうことを言うと、新興宗教と同じように見られるからやめたほうがいい」と忠告された。
私は、一人の祈りによって一国が動くと信じている。
いくら狂信的と言われようとも、聖書にそのようなことができると書いてあるのだから、私は信じるし、それを堂々と主張する。
聖書では「疑わずに、山に向かって『動いて、海に入れ』と言えばそのとおりになる」とある。
まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。(マルコ11・23)
イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。
(マタイ21・21)
こういう信仰を表明して、それに「つまづく」ならば、それは、その人の責任である。
今では、アメリカ人も同じような「配慮」をするのでびっくりするが、こういう配慮は不信仰である。
ヴァン・ティル主義者は、クリスチャンとノンクリスチャンの両方が納得する思想的基盤はないと信じている。
たとえば、「殺人は神の御言葉である聖書において死刑に処せと命令されている。だから死刑は合法だ」とクリスチャンが主張し、それに対してノンクリスチャンが「神を持ち出すことはできない。なぜならば、私は神を信じていないから」と答えた場合、クリスチャンは「じゃあ、神がいないという前提から出発して議論しましょう」ということはできない。
ノンクリスチャンも神の被造物であり「神を知っている」。
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。(ローマ1・20)
だから、われわれは、神の存在を前提として議論を出発させるべきである。
ノンクリスチャンがそれを拒否するならば、そのノンクリスチャンは神の呪いのもとに置かれる。
というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。(ローマ1・18)
クリスチャンは信仰によってことを行い、ノンクリスチャンは不信仰によってことを行う。
長期的に、クリスチャンは祝福されて強くなり、ノンクリスチャンは呪われて弱くなる。
結局、御言葉は「すべてのものを貫く剣」であり、それゆえ、「最終結論」なのである。
クリスチャンが御言葉を最終結論とせず、ノンクリスチャンの前提から出発するならば、無益な悪循環に陥る。
つまり、
1.聖書を前提としない
2.不信仰のゆえに呪われる
3.クリスチャンが弱くなる
4.ノンクリスチャンの勢いに飲まれる
5.ますます聖書を信じられなくなる
6.聖書を前提としない …
「疑わずに、山に向かって『動いて、海に入れ』と言えばそのとおりになる」と言われたのであれば、そのまま信じるしかないのである。
そして、その信仰を表明して、ノンクリスチャンがどのように感じたか、関係ない。
教会成長学によって、世界のクリスチャンの信仰がガタガタになった。
いつもノンクリスチャンに合わせ「気に入られる」ことを求めるようになった。
キリスト教が人気商売に堕した。
神の言葉を「すべてのものを貫く剣」として扱わない。
クリスチャンの態度とは、
「聖書が結論です。それに賛同できないならお引き取りください。」
でいいのである。
去っていくノンクリスチャンを追いかける必要はない。
それ以上は、神の領域である。
われわれができることは、信仰によって行動するだけ。
結果は神にゆだねるべきである。