聖書への信頼は救いの基本である


現在われわれが手にしている聖書は、ほぼ原典どおりである。

アレキサンドリア写本というローマ・カトリック=イルミナティの写本に基づいているにせよ、しかし、マジョリティ・テキスト=ビザンチン写本との差異は、われわれが考えるほど大きくない。

もちろん神の言葉という点でみれば、1か所でも間違っているならば、大問題である。

そういう意味では、ビザンチン写本に基づく翻訳聖書発行が望まれる。

しかし、だからといって、今われわれが持っている聖書が原典とはまったく異なっていて、まったく信頼に足らない、というような性質のものではない。

教理に大きくかかわる相違点は数カ所にとどまる。

それにしても、教理を根底から覆すような重大な変化はない。

だから、現在われわれが読んでいる聖書が原典から大きく外れているという考えのもとに聖書に対する信頼を失うならば、かえって自分にとって有害である。

サタンの一番の狙いは、聖書信仰の破壊にあるからだ。

トマス・シューマンが言うように、転覆の第一は「デモラリゼーション」つまり「士気・自信の喪失」である。

自分が信頼している人や教えを崩すこと。

サタンはこれを第一に行う。

われわれが信頼すべきは、聖書だけである。

聖書は神の言葉だから。

その聖書に信頼しなくなれば、では、いったい誰に頼るのか。

人間は、頼ることによって生きている。

毎日、お米が食べられるのは、農家の人々の労働に負っている。

全部自分だけでやれる人などいるはずがない。

それは神だけである。

われわれは、太陽にも、地球にも依存している。

真に独立できるのは神以外にはいないわけだから、頼ることをやめるわけはいかない。

しかし、誰に頼るかが問題なのである。

キリスト教は、聖書に頼る宗教である。

そのキリスト教が聖書に頼れなくなったら、誰に頼るのか。

人間理性か。

人間理性が究極であるという立場をヒューマニズム(人間教)という。

学校ではこのヒューマニズムが教えられている。

しかし、人間理性に頼れ、と最初にささやいたのは、サタンである。

エデンの園において、人類は依存の対象を神から自分に切り替えた。

そこから悲劇が始まった。

本来永遠に生きることができるはずだったのに、死が入った。

神のライバルになったので、神から呪われるようになった。

イエス・キリストの十字架は、われわれが自分に頼ることをやめて、神に頼るようになるための道である。

クリスチャンとは、神だけに頼る人である。

もちろん、太陽にも大地にも農民にも商店にも頼るわけだが、それらは、神への依存の結果「神から与えられる依存対象」である。

われわれは直接的に誰にも依存できない。

神に依存して、その神が与えてくださるものに依存する。

だから、究極的な意味で神にのみ依存する。

聖書は神の言葉である。

もし神の言葉ではなく、誤りの多い書物または人間の著作であるならば、われわれは神に頼ることができない。

なぜならば、神を定義できないからである。

われわれが聖書の上に立って、「この箇所は受け入れられるが、あの箇所はだめだ」と判断できるならば、われわれが神である。

われわれは、クリスチャンになっても「自分で善悪を判断している」。

自分の価値基準で生きることは「善悪の知識の木」から取って食べることを意味するので、もはやクリスチャンではなく、堕落したアダムである。

聖書信仰に立たない人は、ことごとく神の主権を拒否し、自分の価値観を絶対視しているので、もはや信仰を捨てたと判断される。

それゆえ、現在われわれが手にしている聖書を権威として扱えない人は、ことごとくノンクリスチャンであり、永遠の命にあずかることができない人とみなすべきである。

ぜひ聖書信仰に至り、救いを得ることを切望する。

 

 

2015年11月26日



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