どうか賢い道を選んでほしい


よく人物の紹介記事において、名前の次に(1947-)という誕生年が書いてあることがある。

すでに死亡した人、たとえば、A・S氏の場合はA・S(1947-2010)のように死亡年が誕生年の後ろに記される。

われわれにとってこの人生は「仮の人生」である。

昇天して、本当の人生が始まったらこの(  )の中には、死亡年から記される。

A・S氏の場合、(2010- )となる。

来世では、死亡することがないので、後ろの数字は永遠に記入されない。

あえて現在年を記入すれば、(2010-2013)となる。

永遠の世界は、「永遠に」続くので、(2010-112,344,012)ということもある。

つまり、A・S氏は、この時点で、112,344,012歳である。

さて、来世ではセカンド・チャンスはまったくないので、仮にA・S氏が地獄に行った場合、112,344,012歳でもそこから出てこれない。

300兆年経っても出てくることはできない。

文字通り永遠に地獄の火によって苦しめられる。


その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』(ルカ16・23-24)

「炎の中の苦しみ」が永遠に続く。

「指先を水に浸して舌を冷やすように」求めるほど苦しい。

周囲の熱さで、舌すらも熱くなっている。

こんな苦しみが300兆年続いても、その苦しみが終わる希望はない。

生前に犯した罪の重さに応じて、炎の熱さも変わるから、戦争を引き起こして無数の人々を殺してきたロスチャイルドなどは、もっとも熱い炎の中で永遠の時を過ごす。

人々は、このような過酷な運命を否定するために、様々な異端を作りだした。

輪廻転生などはその一つだ。

次の世において、浮浪者に生まれても、地獄よりははるかによい。

地獄の存在を打ち消したいがために作り上げた幻想である。

またある人は、死後に無になるという教えを作りだした。

しかし、無辜の人々を殺した連続殺人鬼がいかなる責任も問われることなく無に帰するなどということはありえない。

この世界が神によって創造され、人間が道徳的な存在として今存在する以上、責任は必ずついて回る。

人は「行いに応じて裁かれる」なければ、「やったもの勝ち」になる。

このような考えでは、法体系は基本から崩れる。

法体系は、「自分の行ったことの重大性に応じて刑罰を受ける」ことによって成立する。

組織の中で不当なことが行われ、しかも、それを見て見ぬふりをしていれば、その組織は崩壊する。

われわれのこの世界においても、「責任を取らないことが破局を招く」という原理は厳然と機能している。

神の評価は完全であり、どのような小さな罪でも完全に記憶され、裁きがまっている。

神が一点でも、罪をそのままにし、裁きを行われなければ、神の絶対性が崩れる。

神は、完全であるから、罪を放置できない。

キリストを信じるならば、その罪はキリストが身代わりに負ってくださる。

神は、キリストの十字架のゆえに、その人を赦すことができる。

これで帳尻は合う。

信じないままに死ぬと、結着がついていない罪を背負ったまま神の御前に立つことになるので、刑罰は自分が受ける。

現世での人生は一瞬のうちに終わる。

来世での人生は永遠に続く。

だから、何を犠牲にしても、キリストを信じなければならない。

長くても80年の生涯である。

80年の間楽園で過ごすことを求め、8000兆年の地獄を選択することくらいバカげたことはない。

逆に、80年の間、キリストのために生涯を捧げ、御国のために苦しむ道を選択し、8000兆年の楽園を選択することくらい賢いことはない。

この地上で、神の国の拡大のために犠牲を払えば払うほど、8000兆年の幸福は増す。

50歳を超えると、死が現実のものとして見えてくる。

肉親や友人が次々に亡くなる。

病気がちになる。

明日死ぬかもしれない。

この選択がますます重要になってくる。

ふと気が付いたら来世にいるかもしれない。

どうか賢い道を選んでほしい。

 

 

2014年1月19日



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