「わたしの国はこの世のものではありません」の意味
イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」(ヨハネ18・36)
1.
この箇所を根拠に、「クリスチャンは天国の国民であって、この世の人々ではない。だから、この世の政治や経済にかかわってはならない。それはサタンの領域だからノンクリスチャンに任せておけばよい」と結論する人々がいる。
彼らは「地を従えよ」や「すべての国民を弟子とせよ」との命令と調和させることができない。
われわれは聖書のどこにおいても「この世は放置してよい」と教えられていない。
むしろクリスチャンは「王なる祭司」と呼ばれている。
イエスはご自身を「天地におけるいっさいの権威を受けた」と言われた。
そして、現在、神の右の座についておられる。
イエスご自身は王であり、イエスにつくクリスチャンも王である。
それゆえ、この箇所を「この世をノンクリスチャンに任せてよい」と考える根拠としてはならない。
この箇所の意味は、同じ文脈にある次の聖句から明らかである。
正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。(ヨハネ17・25)
「この世」とは「御父を知」らない世界。
つまり、サタンによって支配されている世界。
彼によって盲目にされた世界。
それゆえ、「わたしの国はこの世のものでは」ない。
イエスの御国は、「サタンによって支配され、盲目にされている世界」ではない。
もしイエスの御国が、サタンが支配する世界であるならば、「わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったこと」だろう。
つまり、「武力によって、戦い、防衛する世界」であったことだろう。
しかし、イエスの御国は、武力で防衛する必要がない。
なぜか。
信仰によって勝利する世界だから。
クリスチャンを武力で攻撃してもサタンが勝てないのは、信仰によって働く神の力のほうが強いからである。
2.
このように考えるとわかりやすい。
すなわち、イエスの御国は、風呂場のようなものである。
風呂場の中に、カビのコロニーがある。
このコロニーを支配しているのはサタンである。
つまり、これは、ノンクリスチャンの世界。
このコロニーの内部では、人々は互いに軍事力や政治力、経済力、学力、美など、人間的な力で、互いに争い、奪い合い、勢力を誇っている。
しかし、コロニーは、風呂場を支配する家主の管理下にある。
カビキラーを噴霧すれば、消滅する。
この家主は、コロニー内部の力学に支配されない。
イエスは、全世界を支配しておられる。
サタンの王国は、その一部である。
イエスは、神に対する完全な服従によって、全世界を支配する権威を与えられた。
本来人間が獲得すべき「永遠の支配者の地位」を代わりに得てくださった。
イエスとともに風呂場全体を支配する権威を持っている人(クリスチャン)は、カビのコロニーの生殺与奪の権威をも持っているので、その内部の方法である軍事力や政治力、経済力、・・・に頼る必要はない。
彼らに必要なのは、信仰だけである。
なぜならば、信仰があれば、イエスの権威を受けることができるから。
3.
教会に対して「人間的な力、すなわち、武力や政治力、経済力、学力、美、エンタメなどによって支配を拡大すべきだ」と奨励するのが、教会成長学である。
教会に「カビのコロニーの力学」を持ち込んだのである。
こういう方法を採用するのは、新興宗教である。
「うちの教祖は、政治家と仲がよい」とか「世界の大学から博士号をたくさんもらっている」とか「うちの信者は一流大学卒だ」とか、パンフに美女を載せるとか。
クリスチャンは、こういう世俗的な権威を利用する必要はまったくない。
信仰だけでよい。
信仰があればあるほど、イエスの権威がそれだけ働く。
4.
では、世俗の価値はすべて無視してよいのか、と尋ねる人がいるかもしれない。
私は、ノーと考える。
なぜならば、世俗の価値の中に、神が有用と考えるものが含まれているからである。
「ノンクリスチャンの築き上げたものをことごとく無視すべきだ」というのは、「神の似姿としての人間とその営為」を拒絶することである。
クリスチャンの態度は「世俗にあるものでも、神の法に準拠していればそれを受け入れ利用する」というものであるべきだと考える。
2020年7月3日
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