信仰は努力してはじめて成立する
信仰を何か「自然に沸き起こる感情」のように考えている人がいる。
違う。
信仰とは「努力して勝ち取るべき習慣的な思考」である。
聖書では、人間の第一の使命は「神を愛すること」であると教えられている。
本当の愛は自然に湧き上がるものではない。
自然に湧き上がるものであるならば、イエスは受肉もされず、十字架にもつかれなかったはずである。
御父のそばにおいて永遠の昔から受けておられた栄光を捨てることなどなかったはずである。
イエスは神であられるのに、われわれを愛するがゆえに受肉され、地上で苦しみを受け、十字架において死なれるために「わざわざ」やってこられた。
それゆえ「神を愛する」愛とは、「自然に沸き起こる感情」ではないということがわかる。
イエスのように「栄光を捨てて、死の苦しみと恥辱を味わう」ほどの努力を要するものである。
自分の全存在、全生涯をかけてはじめて成立するのが「神への愛」である。
信仰とは愛の現れである。
「聖書では処女降誕が言われているかもしれないが、ちょっと信じられない」
このような不信仰は、神への愛が欠如しているからである。
「信じられるかられないか」の問題ではなく「信じなければならない」のである。
聖書は神の言葉である以上、神を主権者として拝む義務があるわれわれには「信じられない」という選択肢はない。
イエスが命をかけられたように、われわれも命がけで「信じる努力」をすべきである。
不信仰な人は、「処女降誕?常識では考えられないけど、聖書が言うので信じます!不信仰な私を許してください!」と必死になって神にすがるべきである。
われわれの生まれながらの性質は不信仰である。
われわれは生まれながらに神を疑うものである。
われわれは生まれながらに聖書を疑うものである。
このような堕落した性質を克服するために必要なのは、強固な意志と不断の努力である。
2017年12月3日
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