イバンカ氏が韓国を訪問しなかったのは、明らかにアメリカによるメッセージである。
つまり「韓国軽視」である。
米国を仲裁人として定めた日韓合意を破って、領事館前に慰安婦像を建てるとか、対北制裁のために日米韓の協調体制を作ろうとしている矢先に、北朝鮮に資金支援をするとか、外交を舐めているとしか思えない。
きちんとした付き合い方ができなければ、ハブられるだけ。
日韓合意がある以上、今後、慰安婦像による対日攻撃は、全部自分にとって不利になるだけだ。
そもそも、慰安婦問題は、虚偽から始まった。
吉田清治なる嘘つきに金を払って偽りの証言をさせ、それをあたかも事実であるかのように朝日が報道し、韓国がそれに乗って既成事実化しようと国内外に慰安婦像を建ててきた。
ああ。うそを綱として咎を引き寄せ、車の手綱でするように、罪を引き寄せている者たち。
・・・
彼らはわいろのために、悪者を正しいと宣言し、義人からその義を取り去っている。
それゆえ、火の舌が刈り株を焼き尽くし、炎が枯れ草をなめ尽くすように、彼らの根は腐れ、その花も、ちりのように舞い上がる。彼らが万軍の主のみおしえをないがしろにし、イスラエルの聖なる方のみことばを侮ったからだ。
このゆえに、主の怒りが、その民に向かって燃え、これに御手を伸ばして打った。山々は震え、彼らのしかばねは、ちまたで、あくたのようになった。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。(イザヤ5・18-25)
嘘によって義人を貶め、その名誉を汚し、悪者扱いする者の運命は、(1)「刈り株の焼き尽くし」(2)「根の腐れ」(3)「花の舞い上がり」である。
(1)「刈り株」。すでに彼らは刈られている。裁きはすでに行われている。「刈り株の焼き尽くし」は、すでに行われた裁きの後に残った「わずかな命」に対する裁きである。
その「わずかな命」すらも「焼き尽く」される。
地上に残った刈り株は丸焦げになる。
(2)「根の腐れ」。丸焦げになった刈り株でも、根があるうちは生命がある。養分を吸い上げることができるから。後で芽が出ることもあろう。
しかし、根が腐れてしまっては、もうおしまいである。再生は不可能だ。神は嘘つきや中傷者を徹底的に裁かれ、絶滅される。
(3)「花の舞い上がり」。栄誉や美、成功を象徴する「花」は、「ちりのように舞い上がる」。
つまり、花にはもはや水分はなく、裁きの炎の中で乾燥し、砕け、粉塵のようになる。
風が吹くと、ちりのように舞い上がって、どこかに消えていく。悪者の栄光は、徹底して破壊され、誰もそれを思い出さない。
「主の怒りが、その民に向かって燃え、これに御手を伸ばして打った。山々は震え、彼らのしかばねは、ちまたで、あくたのようになった。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。」
(4)「主の怒りが民に向かって燃える」
中傷をする者に対して、神は怒られ、その怒りの炎は彼らに吹き付けられる。偽りと中傷をやめない人々は、神の火炎放射器から出る火炎によって焼き尽くされる。
(5)「御手を伸ばして打った」
神ご自身が手を伸ばされ、彼らを殴打される。神は裁きの日に、悪人の顔を殴られる。
(6)「山々は震え、彼らのしかばねは、ちまたで、あくたのようになった」
神が怒られると、天蓋を支える柱である山も震える。つまり、われわれが依存しているこの世界の屋台骨が揺らぐのである。
悪人は「悪を行っても、われわれには報いは来ない。世界は、道徳と無関係に動いている」とたかをくくっている。
しかし、人の道徳性に応じて、世界は変化する。罪が積もってある限界を超えると、神は、裁きのために、彼らが立っている土台を揺さぶり、自信をことごとく粉砕する。
悪人は、命を奪われて「しかばね」となり、そのしかばねは、「あくたのようにな」る。
つまり、裁きによって命を失って倒れた死体は、ゴミ捨て場に投げ捨てられる粗大ゴミと化す。
(7)「それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。」
悪人の土地が、死体に満ちても、御怒りは収まらない。
神はいったん上げられた手を容易には収めたまわない。
裁きは「これで終わりだろう」との期待を裏切る。
「まだ終わらないのですか!」と人々は嘆く。
神の義が満足するまで、刑罰は続く。
世の中を舐めきっている人間に訪れるのは、執拗な刑罰である。