新約時代の経綸に基づくルカ21章24節の解釈2
1.
今、タルムードユダヤ人の影響が明らかになり、神学そのものも大幅な見直しが必要となっている。
エドワード・ヘンドリーにより、ローマ・カトリックだけではなく、アルミニウス主義、ディスペンセーショナリズムが、タルムードユダヤ人の創作であるとわかり、どれだけ教会が悪魔の影響を受けてきたか本当に驚きを覚える。
聖書の理解そのものが歪んでおり、これからは、聖書の読み方を、きちんとした歴史的な正統神学の理解に基づいてやり直す必要がある。
紀元70年にイエスが旧約聖書を成就したこと、経綸が変わったこと、セオノミー、ポスト・ミレ、契約神学、統治主義、こういった健全な理解に基づいて一つ一つの箇所を見ていく必要がある。
2.
ディスペンセーショナリズムの影響は非常に大きく、また範囲も広い。
今の教会の聖書理解は、ディスペンセーショナリズム的である。
紀元70年に経綸が変わったという理解に乏しいので、パレスチナ及びアブラハムへの約束の地であるナイル河からユーフラテス河までの土地を武力と計略で奪還しようとする今のイスラエルを非難しない。
旧約聖書がすべてキリストによって成就したという理解もないので、旧約の預言で現代の政治状況を解説する。
初臨のキリストにやり残したことがあったと考えるので、再臨のキリストにその成就をゆだねる。
かく言う私も、徐々に洗脳を解かれている段階である。
ディスペンセーショナリズムを作ったタルムードユダヤ人たちは、旧約聖書の経綸を新約時代に適用しようとした。
だから、われわれは、まだ「ユダヤ人(契約の民)と異邦人(契約外の民)」という区別をする。
たとえガラテヤでクリスチャンこそが「神のイスラエル」であると示されていても、この区別がしぶとく残っている。
新約時代の経綸では、「クリスチャン(契約の民)とノンクリスチャン(契約外の民)」に代わったのである。
民族による区別は撤廃された。
ただし、神は民族の区別を尊重されるから、民族の特徴を軽視すべきだということではない。
イルミナティのように、国民国家を解体し、移民を導入し、あらゆる民族を融合せよ、などとは言わない。
(イルミナティは、タルムードユダヤ人だけが民族的にしっかりとした位置をしめ、他の民族は融合し、民族的アイデンティティを崩壊させようとしている。)
メシアニック・ジューの人々が、律法における祭りやその他の旧約聖書の習慣を尊重することに異論はない。
しかし、それを旧約聖書の経綸にしたがって行うならば間違いである。
つまり、「豚肉」や「血のついた肉」を健康上の理由で食べないというならわかるが、宗教的命令として食べないというならば間違いである。
なぜならば、ペテロは神から「わたしが聖めたものを聖くないと言ってはならない」と言われたからである。
新約時代に、特定の動物の肉を不浄として禁止すべきだ、と言ってはならない。
あれは、旧約時代の契約の民に「聖俗・浄不浄の区別」を教えるための実物教育だった。
新約時代において、「聖俗・浄不浄の区別」は「動機」である。
主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。(ローマ14・14)
しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。(ローマ14・23)
2015年8月10日
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