1.
アーサー・ピンクは「三人の神がおられると聖書は述べていない」というが、本当だろうか。
聖書は、神には父、子、聖霊の3つの人格(ペルソナ)があると教えている。
複数の人格が同一の体の内に存在する可能性のある被造物とは異なり、神には体がないので、3人格が一人である可能性はない。
存在論的に「一」であると同時に「多」であるということは不可能である。
ウェストミンスターも、ニケアも、コンスタンチノープルも、諸信条には「神は存在論的に一である」と読み取れる箇所はない。
聖書は、明らかに「神は存在論的に多である」と教えている。
イエスはご自身が天に行くが、聖霊は地上に下ると言われた。
しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。(ヨハネ16・7)
もし神が存在論的に「一」であるならば「去って行く」ということと「来る」ということは、同時に実現しない。
ある人が「私はこれから大阪に行きますが、その代わりに私は東京に来るでしょう」と言えば、「おかしいことを言う人だな」と思われる。
前者の「私」と後者の「私」は別の人であると考えれば、意味が通る。
つまり、イエスと聖霊は別の「存在」なのである。
では、聖書において、この両者が「一人である」と宣言されているのをどう理解すればよいか。
「法的に同一人物である」と考えればよいのである。
今の例で言えば、「A社の社員である私は支店長をやめて大阪本社に赴任しますが、代わりに別の社員が支店長として東京に来るでしょう。私とその別の社員は同じA企業に属しているので、代わりの人が来たからといって、A社が東京支店を放棄したことにはなりません」となる。
イエスと聖霊は別の存在であるが、「法的に一人」なので、イエスが昇天されたからといって、地上に神はいなくなるということにはならない。
聖霊が代わりに地上に来られ、われわれとともにいてくださるので、「イエスはともにおられる」とわれわれが言っても何も問題はない。
御父とイエスと聖霊は、別の存在であるが、契約的・法的に同一であるので、聖霊がわれわれとともにおられるならば「契約的・法的に御父もイエスもわれわれとともにおられる」と言える。
これ以外に、どのように合理的に理解できるのだろうか。
2.
「契約や法による統一」を主張すると、「契約や法が神を規定する上位概念になる」という考えもあるが、私はそのように考えない。
契約や法は、神の属性なのである。
神とは契約的、法的なおかたなのである。
契約や法という概念が先にあって、神を規定するのではなく、神とは「契約や法を制定し、守られる方」なのである。
どうしてそのように考えられるのだろうか。
互いに他者である男女が結婚によって一人になり、それが神の似姿であると、聖書に啓示されているからである。
「これはアダムの歴史の記録である。神は人を創造されたとき、神に似せて彼を造られ、男と女とに彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、その名を人と呼ばれた。」(創世記5・1-2)
「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となる。」(創世記2・24)
「ふたりは一体となる」
これが、神の姿を示しているというのである。
つまり、存在論的に他者である複数の人が、契約によって「一人」になる、これが、神を示していると。
契約という概念が先在するのではなく、神ご自身の永遠の属性に「契約による合一」の原理が含まれているのである。
3.
今のリフォームドの「存在論的に多であると同時に一」という考え方には、無理がある。
神がわれわれに聖書をお与えになったのは、非合理を飲み込ませるためではない。
そしてこのような考え方が、諸信条に記されているという証拠もない。
神は、キリストの「真の」教会を真理に導いてこられた。
多くの人々が誤謬に流される中で、真理を保持する少数の人々を必ず残してこられた。
異端との戦いの中で諸信条にまとめられた真理に、この導きを感じ取ることができる。
私は、神は「存在論的に多、契約的に一」のお方であると、信じている。
そして、これは、「真の」教会が保持してきた真理であると考える。