人々は共産主義という大きな詐欺システムに気づきつつある


(1)
福祉国家とは、利権国家の別名である。

それは、共産主義が、独裁主義の別名であるのと同じである。

悪魔は、美名を用いて内実を隠そうとする。

聖書における福祉とは、国家を経由しない。


あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。(レビ記19・9)

あなたがたの土地の収穫を刈り入れるとき、あなたは刈るときに、畑の隅まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂も集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。(レビ記23・22)

あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。
あなたがオリーブの実を打ち落とすときは、後になってまた枝を打ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。
ぶどう畑のぶどうを収穫するときは、後になってまたそれを摘み取ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。 (申命記24・19-21)

隣人のぶどう畑にはいったとき、あなたは思う存分、満ち足りるまでぶどうを食べてもよいが、あなたのかごに入れてはならない。(申命記23・24)

収穫場の隅は、われわれのものではない。

また、うっかりして落としたものもわれわれのものではない。

それは、在留異国人や、みなしご、やもめなど、働く力のない人々のためにある。

これらの福祉は、国家を経由しない。

だから、官僚や政治家によって盗まれない。

十分の一も、レビ人を通じて、神殿に納められる。

国家は関係ない。

国家は、十分の一未満を取ることができる。

「(王は)あなたがたの羊の群れの十分の一を取り、あなたがたは王の奴隷となる」(1サムエル8・17)

十分の一を取る国家は、国民を奴隷としている。

福祉とは、聖書に記されているもので十分である。

際限なく税金を上げなければならないような巨額のものではない。

聖書の命令をまとめると、

1.国家は税率を十分の一未満にしなければならない。

2.個人は手で取って食べられる程度のものを自由に隣人に提供しなければならない。

3.個人は自分の仕事から得られる収入のうちで貧しい人々のために「畑の隅」や「取り忘れた1束」に値する分を残しておかねばならない。

4.教会は十分の一を集めてそれを教えと交わりのため、貧しい兄弟姉妹のために使わねばならない。

神は「これで福祉は十分だ」と言われる。

だからといってこれ以上行ってはならないというわけではない。

神が金持ちに求めておられるのは、「自分の財を貧困者にばらまくこと」である。

イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」 (マタイ19・21)

ただ、このようなばらまきを国家が個人に命令することはできない。あくまでも、神と自分との間で決めることである。

共産主義体制とは、このばらまきを強制する。そして、そのばらまきは貧困者には渡らない。

「貧困者のため」という美名のもとに行われる「個人つぶしの国家崇拝」である。

(2)
今の福祉国家共産主義体制は、けっして貧困者のために作られた制度ではなく、国家に財産を集中させるためのものである。

共産党宣言を見れば明らかだ。

共産党宣言において、マルクスとエンゲルスは、「これらの十か条は、国家が共産国であるか否かを判断するための試金石である」と述べた。もしそれらが効果的に施行されているならば、その国は共産国であると。

1.  私有財産を廃止し、すべての過剰利益を公共に適用すること。

今日、政府はあらゆるレベルにおいて、すべての財産の所有者であり、それらの財産に対して財産税を支払う者にのみ所有することを許可する。所有者は実質的に借主である。
http://www.millnm.net/qanda3/53YWYunvBBJhU15765.htm

これだけ財務省が消費税をごり押しするのを見るならば、人々が大きな政府、福祉国家を捨てる日も近い。

人々は共産主義という大きな詐欺システムに気づきつつある。

 

 

2012年6月15日

 

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