禁欲思想ははぜ悪魔的か



もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、
「すがるな。味わうな。さわるな。」というような定めに縛られるのですか。
そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。
そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。(コロサイ2・21−23)

(1)
キリストを信じることは、「キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れ」ることである。

つまり「考え方」をまったく変えること。

クリスチャンになった後でも世の思想にひきずられているならば、それは本当にはクリスチャンになっていないことを意味する。

進化論とか、共産主義とか、そういった思想は「幼稚な教え」である。

首尾一貫性がない。深みがない。

進化論を信じ、徹底してそれを実践したら、犯罪など存在しないはず。

なぜならば、弱肉強食がすべてなのだから。

強い人間は弱い人間を殴り殺しても罪にならないはず。

むしろ進化を促進することになるからほめられるべき。

幼稚な教えにとらわれてはならない。

非六日創造説なども幼稚。

聖書ははっきりと「夕があり、朝があった。第一日」とある。

何億年の長期と考えるならば、この朝夕とは何か?説明がつかない。

創造は六日で完成した。

ノンクリスチャンの思想から離れなさい!

幼稚になるから。

聖書の思想は、大人の思想である。

(2)
「『すがるな。味わうな。さわるな。』というような定めに縛られる」ことは、「世の生き方」である。

「酒やタバコを飲むな、味わうな、さわるな」というような教えは、「世の生き方」である。

ノンクリスチャンの考え方である。

異端はだいたい禁欲思想である。

モルモン教は、コーヒーまで禁止する。

「じゃあ、コーヒー豆は誰が創造したのですか?」と聞きたい。

神が創造されたものを「有害だ」とするのは神に対する文句である。

神の創造物を味わうことを禁止する思想は、「人間の戒めと教え」であり、「用いれば滅びる」ものである。

(3)
「そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見え」る。

禁欲思想は、賢く見える。謙遜なように見える。

しかし、傲慢である。

なぜならば、神を超越しているから。

ある禁欲思想の持ち主がタイムマシンでエデンの園に現れて、エバに対して「その中央の木の実だけではなく、その周りの木の実も食べてはならない」といったとする。

神がやってこられて「いや、私が言ったのは中央の木の実だけだ」と言われた。

しかし、この禁欲思想の持ち主は、「いえ、神様あなたが何を言おうと私は関係ありません。私は周りの木の実も禁止したいのです!」という。

神が「なぜ私が命じてもいないものを禁止したがるのか?」と尋ねると、彼は「そのほうが敬虔・謙遜に見えるからです!」と答える。

神よりも敬虔な人って何?

神よりも謙遜な人って何?

実のところ、彼は敬虔でも謙遜でもない。

こういう人は、次第に神が邪魔になってくる。

「神様、あなたはあまりにも放縦すぎます。あなたがいると、このエデンの園がめちゃくちゃになってしまいます。」と口答えする。

そして、ついに対立が激しくなり、彼は神をエデンの園から追い出した。

神を追い出したエデンの園はどのような場所になるだろうか。

「奴隷の園」だ。

彼は、自分が敬虔・謙遜に見えるように、その他のいろんなものを禁止していった。

中にいるアダムとエバは、禁令によってがんじがらめに縛られた。

このように、禁欲思想の根源は神への敵対心であり、その背後にはサタンがいる。

だから、「肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもない」。

禁欲思想で、殺生禁止、肉食禁止の宗教で男色がはびこるなんていうことはよくあること。

オウムでは、蜘蛛を生かして、人を殺した。

価値観が転倒する。

捕鯨反対なんかも、こういう倒錯した「環境保護運動」の影響であり、それゆえ、きわめて病的である。

「禁欲思想で人間の欲望を抑制できる」などばかげた考えである。

 

 

2011年1月8日

 

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