世俗的可能性思考と聖書的可能性思考


(1)
ノンクリスチャンでも、信じたとおりに物事はなるということを知っている。

だから、可能性思考という教えがはびこる。

ノンクリスチャンの可能性思考と、クリスチャンの可能性思考が決定的に違うのは、善悪を基準としていないことである。

ノンクリスチャンの場合、契約的ではない。

だから、「悪いことをしようとしているときでも、できると信じればそのとおりになる」と言う。

しかし、クリスチャンの場合、契約的であるから、「神は、悪いことをしようとしているわれわれに力を与えられない」と考える。

ノンクリスチャンが「善悪と無関係に可能性思考が適用される」と考えているのは、知恵がないからである。

(2)
人生において、あまりにも試練にあわないで甘やかされると、「神とか関係ないでしょう」と考える。

とくに日本人の場合、恵まれた国土と環境によってそのように傲慢になりやすい。

だから、日本人がクリスチャンになるのは非常に難しい。

黙っていても、草木が茂る。

砂漠のような土地ならば、神に訴えて泣き叫ばねばならないが、日本のようにどこに住んでいても有り余る雨と肥沃な土地があるから、そんな対決は必要ない。

それで日本人の宗教観は甘ちゃんなのだ。

「自然と合一する」とか。

宮崎アニメはこういうテーマだ。

宮崎自身が「ドイツ人と話すと、自然をコントロールするという発想が口端に出てくるのでわれわれとは違うと感じる」という内容のことを発言している。

日本人にとって自然はコントロールの対象ではなく、同一化のそれであると。

ただし、このような汎神論はヨーロッパでも普通に見られるから日本独自の思想ではない。

汎神論は自然との関係で生まれたものではなく、三位一神教を捨てると生まれる堕落した思想の一つである。

しかし、ヨーロッパや中東よりは自然に恵まれた日本においてこのような思想が生まれやすいのは事実かもしれない。

神はイスラエルを訓練するために、あえて砂漠に置いた。

砂漠の中で周りの何も頼れない環境を生き延びるという経験を通じて神に頼ることを学んだ。


それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。(申命記8・3)

砂漠の体験を積まないと、本物の信仰は手に入らないと聖書は述べている。

(3)

日本人が民族的回心をするには、さらに大きな試練を必要とするかもしれない。

本当に危機的状況に追いやられないとダメなのかもしれない。

「神がイエスと言わない限り、いくら可能性思考を持っていても、物事はうまく行かない」ということを嫌というほど学ばない限り、日本人のキリスト教は成熟しない。

 

 

2013年7月13日



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