本当の自由は聖書信仰にしかない


われわれの知識の土台はどこにあるのだろうか。

近代の人間は、人間自身にあると言った。

つまり「我思うゆえに我あり」の原則だ。

「疑っても疑ってもどうしても疑うことができないもの、それは、疑っている自分だ。これを認識の土台としよう。これだけは迷信や妄想ではないから」とデカルトは言った。

クリスチャンは、聖書こそ疑いようがないもの、と考える。

しかし、ノンクリスチャンは、疑っている自分こそ疑いようがないもの、と考える。

ノンクリスチャンにとって、出発点は自分である。

自分が感じ取って存在を確認できるものを「存在する」と考える。

クリスチャンは、神が聖書において「存在する」と述べたものを存在と定義するが、ノンクリスチャンは、自分で確認したものを存在と定義する。

だから、ノンクリスチャンにとって、科学的に探究できないものは信じるに値しない。

科学的方法によって論証してはじめて存在を確認できるのだから、科学が及ばない領域について、ノンクリスチャンは信じるに値しないとする。

これが近代の人間の限界である。

しかし、大きな落とし穴がある。

1.科学が論証できる領域はきわめて狭く、限定されている。

だから、結局、科学を信じるといいながら、同時に、科学で論証できないものも信じることになる。

理屈が破綻しているのだ。

2.認識がすべて自分にかかっているから、現象に振り回される。

クリスチャンならば、聖書の御言葉に信頼し、現象を無視できるが、ノンクリスチャンは、聖書に頼れないので、人の目、世間の評価、迷信、占いなどに頼る。

その結果、「背骨なし人間」になる。

いつも、ぐらぐらしている。不安でたまらない。死の恐怖がある。

クリスチャンは、自分の状況は必ず解決すると信じる。

そして、自分の人生はどう転んでも勝利すると信じる。

しかし、ノンクリスチャンにはそのような保証はないので、常に不安で、失敗は致命傷になりかねない。

他人と比べて自分が成功したかしないかを決める。

持ち物や財産の大きさによって人間の優劣を決定する。

しかし、クリスチャンは、聖書が基準なので、そのような基準はくだらないと考える。

神が主権者なので、巨大な力を誇る国家も一夜にして滅びることもあると信じる。

相対思考に縛られているノンクリスチャンは、自分で自分の首を絞めている。

このようなものから脱却するには、クリスチャンになって、聖書だけを基準として選択することである。

本当の自由は、聖書信仰にしかない。

 

 

2012年7月27日

 

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