人類は最終的に再建主義に行き着くであろう


進化論が否定されると、今の体制のすべてが崩壊する。

まず教育が崩壊する。

進化がなかったとしたら創造しか選択肢はない。

創造者がいるということになると、世界に計画があり、法があるという可能性が生じる。

すると、イルミナティ(タルムードユダヤ人及び彼らが作ったイエズス会)が作り上げた「無神論」と「無律法主義」的世界観の再構成もしくは廃棄が必要となる。

今日、教育関係者は、「なぜ〇〇してはならないか」ということを理論的に説明できない。

進化によって(つまり偶然に)宇宙ができ、生命、人間が誕生したとすれば、そこには人間を超えた法は存在しないということになるからだ。

つまり、この世界観はきわめて脆弱であり、しっかりとした土台があるわけではない。

学校において「いじめ禁止」をいくら唱えたとしても、「弱肉強食」によって進化が進んでいるとすれば、弱者は淘汰されるべきということになり原理的にはいじめを励ますことになる。

進化論世界観は、ぐらぐらである。

だから、早晩崩壊する。

われわれが、HPにおいて、進化論に対する決定的な反撃を行った。
http://www.millnm.net/qanda4/ippatsude.htm

それに対して有効な回答を出すことはできないだろう。

偶然の積み重ねは、圧倒的に秩序の崩壊に向かう。

きれいな富士山の画像データを無作為に変化させて得られるものは、でたらめな意味のない画像である。

ますます美しい富士山の画像ができあがることはない。

偶然が積み重なっても高度な生命体が誕生することは期待できない。

進化論が崩壊するのが時間の問題であり、それゆえ進化論的世界観が崩壊するのも時間の問題である。

このようなものにしがみついているのは、愚か者である。

われわれは、次のパラダイムを模索しなければならない。

しかし、聖書を信じない人々には次のパラダイムはない。

なぜならば、進化論の代替物は、創造しかないからだ。

創造を信じるならば、聖書を信じるしかない。

なぜならば、創造者が今の今まで人類を放置するはずがないからだ。

これだけの高度に設計された自然界を創造された存在が、人間の行く末について無関心なはずはない。

当然のことながら、創造論を持ち、歴史を導かれ、人間に救いを与えようとする神を唱える聖書的信仰以外に選択肢はない。

もちろん、仏教や他の宗教を選択する道もあるだろう。

しかし、それらはごまかしである。

つきつめて考えるならば、人類は聖書に行き着く。

神が創造者であり、主権者であるから、神の言葉は絶対である。

神の言葉が絶対であるならば、その言葉を解釈する立場の人間には主権はない。

つまり、神の言葉に何か人間の意見を付け加えたり、取り去ったりする権利はいっさいない。

だから、聖書信仰以外に合理的な立場は存在しない。

自分の思想を聖書に基づいて形作るという選択をしないわけにはいかない。

そうなると、カルヴァン主義以外には選択肢はない。

人間理性を究極の権威とする立場をとったローマ・カトリックには正統性はない。

すでに掲示したように、ローマ・カトリックはイエズス会に乗っ取られている。

そして、イエズス会は、隠れユダヤ教であり、キリスト教の外貌を保つことによって、キリスト教を内部から密かに破壊することを目指している。つまり、トロイの木馬である。

ローマ・カトリックと同じように人間理性を究極の権威とした半ペラギウス主義とも呼ばれるアルミニウス主義、そこから派生したメソジスト及び現在の保守系キリスト教の主流派を形成している福音派は、半ローマ・カトリックであり、半ヒューマニズムである。

半ヒューマニズムであるから、予定論を極端として退ける。

神の絶対的予定の教理を受け入れられない心理の根源には、「人間の主権を幾分でも残しておきたがる野望」がある。

われわれは、このような野望を一切拒否する。

神は永遠の昔に一切を予定された。

被造世界で起きるあらゆることは、最初から予定されていた。

われわれが日々目にする日常の出来事はすべて計画の中で起きる。

偶然は一つもない。

徹底した神中心主義以外に、人類が選択する道はない。

この世界は「ただひたすらに」神のために存在する。

すべての人間は、この神の御心を実現するために選び出された役者に過ぎない。

役者が勝手にプロットを変えられないように、人間も神の計画を変えることはできない。

悪人であっても、あらかじめ予定されている。

ユダはキリストを裏切るために生まれた。

神がユダを誘惑してキリストを裏切らせたのではなく、ユダの邪悪な欲望が発現するように「手綱を緩められた」。

ユダの側からすると、損な役割を負わせられたのだが、それについて文句は言えない。

神は人を善人として選ぶか、悪人として選ぶか、完全に主権を持っておられる。

映画監督が、役者の人選について一切の権限を持っているのと同じである。

われわれは幸いに、聖書を信じて、神の主権を認め、神の国を建設する側に生まれた。

それは、幸いなことである。

人は、6億円の宝くじが当たって喜ぶが、救いの予定を受けたわれわれにとって、そんなことはどうでもいい。

救いに予定されたことは、何にも代えがたい幸運である。

なぜ選ばれたのかは不明だ。

なぜならば、神の選びはもっぱら神の主権によるからだ。

人がいいから、善良だから、能力があるから、とか関係ない。

永遠の昔、天地が創造される以前にそのことは決定された。

われわれが存在しないときに、すでにすべては決定された。

われわれがこのようにして、神の国のために活動できるのも、神の一方的な恵みである。


神は、<みこころのままに>あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。(ピリピ2・13)

キリストを信仰できるようになったのも、われわれの選択ではなく、神の選びである。

キリストのために働くように召されたのも、われわれの決定ではなく、神の決定である。

神は、選ばれた人に仕事を与え、財産を与え、能力を与えられる。

そして、それを拡大してくださる。

蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。(2コリント9・10)

われわれが神の国のために働こうとすれば、神は種を与えてくださる。

われわれがそれを蒔けば、実り、刈り取る。

全部、神のおぜん立てである。

私が、献身して神学校に通うとすぐに、ある牧師がグレッグ・バーンセンのTheonomy in Chrsitian Ethicsという再建主義の本をプレゼントしてくれた。

その牧師はまったく再建主義とは知らずに渡した。

2年生のときに、アメリカの学生のキャンプに行った。

そこでラッシュドゥーニーのInstitutes of Biblical Lawを偶然書店で見つけた。

帰国してこれらの書物を使ってセオノミー(神の法)について卒論を書いた。

われわれが献身するならば、蒔く種を与えてくださる。

それがいつ発芽するか、いつ生長するか、いつ大きな木になるかは、神の計画である。

われわれは自分がなすべき仕事、つまり、種を蒔いて育てることだけすればよい。

どのような影響を与えるか、どのような人々が賛同するか、どのような人々がそれによって世界を変えるようになるかは、すべて神の計画において決定されている。

誰を妨害者とするかもあらかじめ予定されている。

妨害者は、神の国を妨害するために生まれてきた気の毒な人々である。

神は、われわれを訓練するために彼らをわれわれに使わされる。

われわれは、苦しみの中で御国を作らねばならない。

妨害や試練を一つ一つ乗り越えて、自らを神の戦士として鍛えられながら、成長しながら、御国を作る。

われわれは神の作品である。

私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ2・10)

人類は、最終的に再建主義に行き着くであろう。

再建主義は、純粋かつ成熟したカルヴァン主義であり、神の啓示に忠実に従おうとする比類なき立場である。

様々な試練の中で、世界はこのことを学んでいくだろう。

 

 

2015年5月5日



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