成功を持続させるには



そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。

柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。(マタイ5・2-5)

(1)
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」

天の御国とは契約のことである。

契約に入れる人はどのような人か。

「心の貧しい者」である。

これは原語では「心において極貧の者」という意味である。

極貧とは、自分に財産があまりにもなさすぎて、自分に頼ることができない状態を意味する。

契約の民は、「自分は非常に罪深い者なので、自分を神に推薦することは絶対にできない」と悟っている。

パリサイ人たちは、「自分は義人であり、神に対して大きな顔ができる」と考えていた。

自分が豊かであり、神に自分を誇ることができると考える人は、契約に属していない。

クリスチャンであるかないかは、この一点を見ればわかる。

「神の前で自分に絶望しているか」。

「私は知恵があります。神の啓示は私から見れば、間違いだらけです」などと考える人は、神の前で自分に絶望していない人だ。

だから、彼は契約に属していない。

絶望している人、神の義と啓示だけに頼る人が、真のクリスチャンである。

自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ18・9-14)

「心の貧しい人」は取税人のように、「神に自己を推薦できない人」である。

神の国は、このような人の国である。

パリサイ人は、自分に信頼し、自分の善行を誇っていた。

このような人は「義と認められない」ので、契約から追い出され、地獄に行く。

本物のクリスチャンになる人は、どれだけ自分が罪人でどうしようもない人間か嫌というほど見せつけられるはずである。

(2)
「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」

契約の民は、悲しむ。

自分の絶望的な姿、罪深さを悲しく思う。

神の基準に達することができない自分を嘆く。

聖書において「クリスチャンは自信を持て」と言われるのは、「自分の素晴らしさに自信を持て」ということではなく、「神の力のゆえに自信を持て」ということである。

本物のクリスチャンは「自分に誇るべきものはない」と悟っている。

だから、クリスチャンは、「自分を見ない」。自分を忘れる。

誤解してはならないのは、それは「自分に対する深い理解」をした後である。

自分を見つめて自分がどうしようもない人間であることを悟った後に「自分を見ないで神を見る」のである。

現実を見据えつつ、現実を超越した神の力に頼るのである。

クリスチャンの訓練とは、くりぬきである。

体の中を全部くりぬかれて、外の皮一枚になった状態。

これが理想的なクリスチャンである。

自信とか野心とかプライド、そういった肉に属するものをすべてくりぬかれて捨てられ、内部が空洞になった状態。

神の霊が完全に支配できる状態。

これこそが神が望んでおられる「用いられる器」である。

金儲けとか、権力拡大とか、人間的な計算をしている人は、神の霊に用いられているのではなく、単に悪霊に騙されているだけである。

自分の願いが神のそれに完全に調和できるまで、われわれは、訓練される。内部をくりぬかれる試練を経験しなければならない。

「悲しむ」人だけが「慰められる」。

自分の足りなさ、我欲、不純を悲しむ人だけが、神からの慰めを受ける。

「癒し系」とか世の中で言われているが、人々が本当の癒しを得られないのは、自分の中にあるものを捨てられないからだ。

中途半端な人には、中途半端な癒ししか来ない。

聖霊による慰めは、自我を本気で悲しむ人のところに来る。

(3)
「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。」

この世の人々は、「地を相続する」ことを目指す。

領土の拡大を目指す。

会社の発展を期待する。

地上で権力を得ようとする。

しかし、「柔和」がない人には与えられない。

神に対して傲慢な人は、最終的に退けられるので、破局がやってくる。

中国のように覇権主義に支配されている国は、最終的に滅ぼされる。

契約の民は、「力を得るには、神に対して柔和・謙遜にならねばならない」と悟っている。

地上で成功する人々は、神に従順で、神の言葉と命令に聞き従う人々である。

だから、訓練されたクリスチャンは、地上で勝利者になる。

われわれがもし会社やその他において成功したならば、傲慢になってはならない。

会社やその他の事業において自分の成功を永続化させたいならば、神の前にへりくだれ。

神の言葉を無視するな。

神の法を守れ。

「きれいごと言ってもだめだ。世の中は金だ」などと言って、神の言葉を無視するような人を経営者にしてはならない。

神の言葉を無視するときに、破滅は始まる。

神に対する謙遜さを失うときに、われわれは契約の祝福を失う。

 

 

2012年10月2日



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