この世界はキリストの王国である。
キリストの法が支配している。
どんなにその法を否定しても、裁かれるときは裁かれる。
無神論者でも裁かれる。自分がどのような思想を持つかは関係ない。
イエス・キリストが紀元70年に神の国を開始されてからこの世界はキリストによって支配され、その支配を拒絶する人全員に呪いが下る。
それを受け入れる人には祝福がある。
イエスは、彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてあるのは、何のことでしょう。
この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。」(ルカ20・17-18)
「この石」とは「家を建てる者たちの見捨てた石」、つまり、イエス・キリストである。
キリストは、御民に捨てられ、十字架につかれた。
見捨てられた石が、「礎の石」になった。
9-16節から、「家」とは「神の国」を指していることが分かる。
つまり、神の国を建設するはずのイスラエルの民がイエスを見捨てたが、それが基礎となったと。
パリサイ人に主導された当時のイスラエルは、グローバリストの国であった。
グローバリズムとは、「武力による世界統一」を目指す。
今日でも、パリサイ人はグローバリズム運動の中心にいる。
そのトップが「シオンの長老」という組織である。
これがイルミナティのトップ中のトップ。
(Edward Hendrie, Solving the Mystery of BABYLON THE GREAT)
彼らが『シオン議定書』を書いた。
この書にあるように、パリサイ人の目的は今日でも「ユダヤ人をメシアとする世界政府の建設」である。
彼らにとってナザレのイエスは邪魔者である。
彼らは「あいつは裏切者だ」と言っている。
つまり、今日でもパリサイ人はイエスを「捨て石」として扱っている。
当時、パリサイ人は、イエスを十字架につけて殺せば、自分たちの世界政府ができると考えた。
イエスは彼らにとって偽メシアであった。
本当のメシアならば、十字架から降りてきて、ローマ軍と戦い、勝利するはずだと。
しかし、結果は、ユダヤ民族の滅亡であった。
紀元70年に、イエスは再臨され、ローマ軍を通じて、世界政府建設を目指す堕落したイスラエルを裁かれた。
そして、「捨て石」であったご自身を「本当の世界政府」つまり「神の国」のための礎石にされた。
図式化すると、
A:パリサイ人の流れ:バビロニア思想→ミシュナー→バビロニア・タルムード→偽メシアによる世界政府
B:イエス・キリストの流れ:聖書→ナザレのイエスをメシアとする世界政府
この2つの世界政府の戦いこそが、聖書の中心テーマである。
紀元70年に再臨のイエスは、Aを破壊され、Bを確立された。
今日われわれが住む世界が向かっているのは、再度のAの破壊と、Bの確立である。
その戦いの際に、「この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。」
つまり、イエスと戦う者は「だれでも粉々に砕け」る。
そして、イエスが「人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまう」。
われわれは一人ひとり、試されている。
Aにつくのか、Bにつくのか。
Aのために働くのか、Bのために働くのか。
パリサイ人の計画にしたがって偽メシア運動に加担するものがほとんどである。
それゆえ、彼らは粉々に砕け、粉みじんに飛び散る。
われわれは周囲がどうであれ、環境がどうであれ、Bのために働く。