携挙はすでに起きた
>私は、真実を教えて下さい、と神様に祈り、このサイトに導かれました。
感謝いたします。
>しかし、黙示録の教義だけは広く福音派に伝わってるものと同様です。そこに疑問を感じたところから調べ始めたのです。
携挙はすでに紀元70年までに終わっています。
なぜならば、パウロが「生き残っている私達が・・・」とテサロニケ教会の人々に語っているからです。
パウロは明らかに同時代に携挙があり、再臨があると信じていました。
もし携挙が未来にあり、再臨が未来にあるならば、パウロがここで述べたことは「外れた」ということになります。
すると外れた予言が聖書に入っていることになり、聖書に誤謬があるということになる。(*)
>少なくとも、世界の平和のためにクリスチャンが祈れなくなっていること自体、おかしな話だと思っていました。
そのとおりです。
>携挙されなければ全員殉教です、と言われるのです。悲観的になりますよね。
>そして携挙の条件などを、聖書箇所からですが示して、働きに加わらなければ携挙されないかのようなイメージを持たされました。
「歴史的な、一回限りの」携挙はすでに終わっていますが、「個人的な、クリスチャンならだれにでも起きる」携挙(肉体的死の後に起きる昇天)は「信仰のみ」によって可能です。
信仰以外に何かの条件が加わるのが救いであるならば「行為義認」という異端になります。
(*)
「パウロ自身は殉教しているので外れたのではないか」という人がいるかもしれませんが、この文脈は個人に関する運命を扱っているのではなく「テサロニケ教会の人々」を主題として彼らへの慰めとして述べられている個所ですから、例外としてその教会の誰かが先に死んでしまうこともあるかもしれないし、また、パウロが個人的に携挙の前に殉教し、それに含まれていなかったとしても問題はありません。
あくまでも携挙によってテサロニケ教会の人々は天にあげられ、イエス及びすでに亡くなった兄弟姉妹と会えることが強調されているのです。
2016年11月11日
ホーム