「世の終わりが近い」とか言っている場合ではない


さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」
すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」
イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」
すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」
別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」
するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」(ルカ9・57-62)

1.

「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」というのは簡単である。

本当の弟子は、最後までついてくる。

途中で投げ出す人は、心の安定を欠いていて、確信がない。

だから、辛くなったり、指導者に何らかの欠点を見いだしたり、感情的な問題が起きると、投げ出してしまう。

そして、再び、暗闇の中を彷徨し、サタンに騙されてギュウギュウの目にあうのである。

イエスに従う者が覚悟すべき事柄は次のとおりである。

(1)この世に帰属場所がない

「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」

帰る家がない。いわゆる「落ち着く場所」がない。

本当のクリスチャンならば、この世のいかなる組織や団体においても「浮く」。

常に違和感を感じる。「マイ・スイート・ホーム」など諦めるべきである。

(2)肉親との関係を相対化できる

「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」

「親が亡くなって義務から解放されたので献身しました」というような献身者は偽物である。

「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」

イエスに従う人間は、「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨て」(ルカ18・29)ることができる。

(3)親しい人間への未練がない

「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」

イエスに従う人間は、いかなるものにも後ろ髪を引かれない。

「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」

親しい人間への未練が残っているような人は神の国の働きには不適切である。

神の国の働き人は、世間的な基準から見て「非情」である。

しかし、それは本当の意味での非情ではない。

もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。(1テモテ5・8)

神の国の働きは、新興宗教の出家のようなものではない。

家族や親族への愛情を失った献身者は「不信者よりも悪い」。

イエスが言われたのは、神を絶対化せよ、ということである。

何よりも神を優先せよと。

2.

どの道でもそうだが、苦痛や不快感を克服しない限り、尊いものを獲得できない。

職場で厳しく指導されるとパワハラだとか言って退職するような人は一生技術が身につかない。

転がる岩に苔はつかない。

老年になって自分に職業的な技術がなく、単純労働しかできないで文句を言う人は、自分が蒔いた種を刈り取っただけの話である。

知恵のある人は「将来を見据えて、苦難に耐えて努力し続ける」。

若い時に、どういう種を蒔いたのか。

東大に入るには、同年代の若者が遊んでいる間に、必死に勉強しなければならない。

イチローは、子供時代に毎日野球の練習ばかりやり、友達とほとんど遊んでいない。

尊いものは簡単には手に入らないようにこの世界はできているのである。

才能があるだけではだめ。

才能と努力があってはじめて実を結ぶ。

すぐに結果がでないと「じゃあ別のことをやろう」とする。結局、実を結ばない。

3.

ブロックチェーンやディープラーニングの本を読むと、プログラミングの世界の奥深さに圧倒される。

開発したエンジニアの努力は大変なものである。

技術は、突き詰める人がいるから発展する。

このような技術者に「再臨で全部解決してもらおう」などという安易な教えが通用するわけがない。

キリスト教は、こういう「道を極めよう」と努力する「レベルの高い人」に受け入れられるようなものにならなければならない。

「世の終わりが近い」とか言っている場合ではない。

 

 

2018年10月2日



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