シナイ写本の発見者コンスタンチン・ティシェンドルフ


近現代のウェストコット=ホート系翻訳聖書の基礎となったシナイ写本の発見者ティシェンドルフがいかに怪しげな人間であるか:


シナイ写本は、1859年2月、コンスタンチン・ティシェンドルフ(1815年~1874年)によって、シナイ山にある聖カトリーヌ修道院のゴミ箱から発見されたと伝えられている。769

聖カトリーヌ修道院の僧侶たちは、ティシェンドルフのゴミ箱の話を否定した。

ティシェンドルフは、写本の作者を特定できるような折句[訳者注:ある一つの文章や詩の中に、別の意味を持つ言葉を織り込む言葉遊びの一種]を隠ぺいするために、写本の一部を切り取り、何枚かの紙葉を破損した。ゴミ箱の話は、なぜこのような行為に及んだのかを説明するために自らが捏造した物語のようである。

シナイ写本は全編にわたって改ざんが行われている。それらは、すべてのページに体系的に加えられ、関わった者は最低でも10人はいた。770 写本を調べる者は、誰でもこのような改ざんに気づく。771

ティシェンドルフは、名ばかりのプロテスタントであり、ローマ・カトリックのヒエラルキーと非常に密接なつながりを持っていた。

彼はバチカンに迎えられ、ローマ法王に個人的に謁見した。ティシェンドルフはバチカンの図書館で、司書アンジェロ・マイ枢機卿(1782年-1854年)と何度か会った。ちなみに、マイ枢機卿は1838年版バチカン写本の著者であった。772 

ティシェンドルフの主張に反して、シナイ写本は四世紀の古写本ではない。

実際、シナイ写本の著者が現れ「自分が19世紀の初めにシナイ写本として知られるようになったモノを著した」と公表した。773 

聖カトリーヌ修道院で自らが著した聖書のギリシャ語写本を、コンスタンチン・ティシェンドルフが四世紀の写本として推薦しているのを知ったギリシャの著名な学者であり古文書学者であったコンスタンチン・シモニデス(1820年~1867年)は、その主張に反対し、この問題に関する討論会にティシェンドルフを招き、シナイ写本を持ってくるように要求した。この文書の著者しか知らない独特のマーキングを、衆人環視の中で示すためであった。

ティシェンドルフは、同意はしたものの、予定していた討論会には現れず、欠席の理由も示さなかった。ティシェンドルフ氏は、ローマ・カトリック教会が経営するメディアを利用して、シモニデスの人格攻撃を開始した。

今日に至るまで、シモニデスは、常に「伝えられたところによると」や「であると主張されている」などの修飾語句を伴う中傷文によって、偽造の罪を着せられ続けている。

ほとんど言及されてこなかったことだが、偽造の申し立ては実際には訴訟で取り上げられ、シモニデスは法廷で無罪判決を受けた。しかし、公式記録によれば、聖カトリーヌ修道院に居住していたカリニコスという名前のギリシャ人の大修道院長が現れ、シモニデスがギリシャのアトス山でシナイ写本を書いているのを自分の目で目撃したことを確認した。774 

さらに、カリニコスは「聖カトリーヌ修道院にいたときに、ティシェンドルフが自らシモニデスの作品であると認めた原稿を所持しているのを見た」と述べた。775 

カリニコスはティシェンドルフを狡猾な人間と非難した。カリニコスによれば、シナイ写本は古代のテキストではなく、レモンジュースとハーブで洗って本文の色を薄くし、古代のテキストに見えるように改造した。さらに、シモニデスが書いた写本を破壊したと、ティシェンドルフを非難した。(Edward Hendrie, "The Greatest Lie on Earth Proof That Our World ls Not a Moving Globe Expanded Edition" pp. 538-539)




 

 

2019年6月18日



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