人生を誰かに操作されて終わりたくないものだ2


1.

昔、子供のころに同性愛が社会で容認されるようになるとは信じがたかった。

考えるだに恐ろしい行為だった。

しかし、今、テレビで多くのオカマや同性愛者が登場し、「ああ同性愛者も、おもしろい人(普通の人)じゃない」と考えるようになった。

こういう考え方の変化は、社会転覆のための「戦意喪失」戦略によって意図的に引き起こされている。

偶然とか自然の現象ではない。

社会を崩壊させるために、人々の倫理観を堕落させるのである。

男女共同参画とか、同じである。

30年前に「アメリカでは、女性が仕事で忙しいので、手作り料理をせず、そのため、子供が家庭の味を知らない」と聞いた。

2.

倫理観は時代によって変わるものである。

それに伴って刑罰も変わる。

昔極刑だったものは、それなりの理由があった。

その罪を赦すと、社会が崩壊すると知っていたので、先人はそれに対して重たい刑罰を科した。

こういう先人の知恵が、どんどんグローバル化の名のもとで否定されている。

神の法には理由がある。

それは「繁栄と幸せと秩序に導く」ために、恵みとしてイスラエルに与えられたものである。

そのため、宗教改革者たちは、神の法を肯定的に評価した。

神の法を否定的に見るようになったのは、ディスペンセーショナリズムの蔓延からである。

ディスペンセーショナリズムは、教会から神の法を奪った。

そして、偽りの祝福を得た。

つまり、人々は「祝福された気になった」。

しかし、神は侮られるようなお方ではない。

人は種を蒔けば刈り取りもすることになる。

神の法に従うならば、祝福を刈り取る。

神の法に逆らって祝福を刈り取れるはずがない。

だから、われわれはディスペンセーショナリズムの反セオノミーの教えを拒絶しなければならない。

3.

教会の歴史の中で長い間受け入れられてきた教えにはそれなりの意味がある。

信仰の信条や告白には、「正統と異端を分ける」という意味がある。

ゲイリー・ノースによると、米長老派のモダニストたちは、信条や告白を無効にするために、経験主義者を利用した。

福音派の大多数を占めていた「教理じゃない。体験です!愛です!」みたいな考え方をする経験主義者たちを利用して、信条や告白へのこだわりを捨てさせていった。

日本がなぜ自由を享受できるかというと、日本人は法治主義に忠実だからである。

法に定められたとおりに行うという原理が確立されている。

だから、警察も裁判所、行政も、法律に反した行動を極力避ける。

訴えられたら負けるからだ。

しかし、中国や韓国のような人治主義の国では、人間の判断が法律を超越する。

そのため、いつどのような理由で自分が逮捕されるか予測できない。

人の目を恐れるようになり、文化全体が「他人に対する極端な無視」に支配されるようになる。

教会も同じである。

教理や信仰信条、信仰告白を軽視することは、自由の拒絶であり、教会の死である。

法律に従って教会が運営されるという厳格な法治主義が適用されるならば、人々は異端を恐れたり、牧師や役員の横暴を恐れることはない。

アメリカのキリスト教の死は、教理軽視、信条や信仰告白の軽視から起きた。

異端が侵入し、それに対して教会が罰を下さない。

フェデラル・ヴィジョンが行為義認であることを認めてもなお、それを唱える人々を追い出さない。

ゲイリー・ノースはCrossed Fingersの中で、

1.信条主義

だけではだめで、

2.司法主義

でなければならないと言う。

つまり、信仰信条を大切にするだけではなく、それに基づいて、異なる信仰の人々を「裁かねばならない」。

規則だけを強調し、罰を下さなければ、教会は敵に乗っ取られる。

「いつの間に、教会はこんなになってしまったのだ!」と嘆く人は知恵がない。

体験を好み、信条を嫌い、教会戒規を軽視してきたつけが回っている。

 

 

2016年8月18日



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