弁護士をされている方から伺ったが、今の司法界は、自然法主義であるという。
自然法は、ギリシャ思想に起源を持つ考え方である。ローマ・カトリックはこの考え方に影響を受け、それを保っている。
だから、ローマ・カトリックは実質的に聖書的キリスト教ではない。
自然法とは、事物の自然本性から導き出される法の総称である。明治時代には、事物の性(さが)に合致する法という意味で、性法(せいほう)という訳語も用いられた[1]。自然法は実在するという前提から出発し、それを何らかの形で実定法秩序と関連づける法理論は、自然法論と呼ばれる。自然法には、原則的に以下の特徴が見られる。但しいずれにも例外的な理論が存在する。
1.普遍性:自然法は時代と場所に関係なく妥当する。
2.不変性:自然法は人為によって変更されえない。
3.合理性:自然法は理性的存在者が自己の理性を用いることによって認識されえる。(Wikipedia)
自然法は、「事物の自然本性から導き出される法」であり、それゆえ、自然が基準である。
しかし、聖書は、自然は基準にはならないという。
なぜならば、
(1)アダムが堕落したときに、自然も堕落した
(2)神は自然を超越して命令を発する
からである。
(1)
創世記によると、アダムは、地のちりから作られた。ここで、アダムと大地とは兄弟であることが言われている。
アダムと自然とはこのようにつながっている。
そのため、アダムが堕落したときに、自然も堕落した。
また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。・・・」(創世記3・17)
ここから、アダムが、人類だけではなく、自然界を代表する契約の主であるということがわかる。
アダムは神との間に、全被造物を代表して契約を結んだのである。
だから、堕落以降、自然は基準にならない。
(2)神は自然を超越して命令を発せられる。これは、創世記のエデンの園の記事にある。
善悪の知識の木は、「まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった」。
つまり、自然の感覚では、その木は「好まし」かった。
神はその「おいしそうで、見た目もよく、賢くしそうな」木の実を食べることを禁止された。
つまり、神の命令は自然を超越するということだ。
だから、自然は基準にならない。
以上、神の法は、「自然本性から導き出される自然法」を超越していることが分かる。
ここから、われわれは、学問をどう取り扱うかの指針を与えられる。
学問によっていかに正しそうに見えても、聖書啓示を超えてはならないということだ。
科学的知識と聖書啓示がぶつかる場合、常に聖書啓示を優先しなければならない。
だから、聖書啓示は、証明を必要としない。
科学によって証明する必要があるならば、「自然は啓示に優越する」と認めていることになる。
クリスチャンは、自然法主義者、自然主義者になってはならない。
科学的発見によって信仰がぐらつく人は、みな自然法主義者だ。
ローマ・カトリックはこの罠にはまってしまい、自然理性を聖書啓示と同列においた。
聖書啓示を優越させることに失敗し、自然理性を自律させ、それに場を与えたために、サタンがそこに食いついた。
自律の領域はどんどん広がった。
サタンは信仰の破れ目から侵入した。
ダムに一つの穴があっても、決壊するように、信仰に一つの破れ目があってもならない。
われわれは、「科学が何を言おうと、聖書に反するならば受け入れません」と突っ張るべきだ。
この立場を崩すと、キリスト教はローマ・カトリックが犯した間違いを繰り返すことになる。
聖書啓示からの自律を許したローマ・カトリックから、西洋は、ついに自然理性の100%の自律に至った。
それがカントである。
カントは、「人間に役立つものだけを真理として受け入れる」立場である。
もはや人間を超える者から与えられる規範など存在しない。
自然法すら蹴っ飛ばした。
現代人の倫理相対主義はここに由来する。
カント以降、なぜ世界における悪魔化が著しく進展したかこれでお分かりだろうか。
エデンの園においてエバが「啓示を超越する」という誘惑に屈した結果が死であったように、現代人も死に直面している。
現代文明全体が、死の文明であり、神の国から追放される運命にある。
戻るところは、前提主義しかない。