信仰 by R・J・ラッシュドゥーニー
先週、私は、ある中西部の大学で講義した。他の講師は英米の学者で、私を含めると総勢8人であった。
あるアメリカ人の講師は、フランクリン・ルーズヴェルトからジョンソンまで大統領の下で大使として働いた経済学者であった。
この学者は、連邦政府が国民の生活に干渉し、コントロールしなければならないと強調し、さらに、未来の福祉のために大いに必要になるので、賃金と物価を管理しなければならないと説いた。
「連邦政府は、国民の利益のために自由に活動する権利を持つ必要がある。そのため、国民は自由をあきらめなければならない」と。
この講義の締めくくりとして、「二兎追うものは一兎をも得ず」とのことわざを述べた。[訳注:原文では「ケーキを食べてしまって、同時に、それを残しておくことはできない」]
このような事を信じるには巨大な信仰が必要である。
ある人が最近「聖書を信じるには、あまりにも大きな信仰が必要であり、私にはできない」と述べたので、私は「政治に関して、あなたは聖書が要求するよりも大きな信仰を持っています」と答えた。
政治家が公約を実行することを信じるには実際に多くの信仰が必要である。事実、今は偉大な信仰の時代であるが、それはキリストに対するものではない。
「二兎追うものは一兎をも得ず」という言葉によって、A博士は、「私を信じ、連邦政府を信じなさい」と述べたのである。私はこのようなことは全くできない。
私はこの世界が神の世界であると信じているので、二兎を追う者が二兎とも得られるとは思わない。([訳注:原文では「ケーキを食べてしまって、同時に、それを残しておくことができるとは信じない」)
A博士は聖書もキリストも信じていないが、私は信じている。
A博士は.偉大な信仰の人である。ただしそれは極めて歪んでいる。
彼は、自分や他の知的な官僚たちが連邦政府を通じて奇跡を行なうことができると信じている。多くの人々が彼に賛同している。
信仰があればそれでいいというわけではない。
キリストへの信仰が必要なのである。
誰でも何かを信じている。そして、A博士を見ればわかるとおり、その信仰は巨大で激しい。
もし私が「月はグリーン・チーズでできている」と信じているならば、または、私が自分のケーキを食べて尽くしてしかもそれを残しておくことができると信じているならば、私の信仰は間違いであり、それゆえ、危険である。
それは狂気である。
そのような信仰を持つ私は、すべてのお金を費やして、二兎を追い続け、毒を食らい、しかも、それが自分を救ってくれると信じ続けるだろう。
我々の問題は信仰が欠けていることにあるのではなく、むしろ、あまりにも信じすぎているということにある。
本当の信仰は、イエス・キリストに対するものである。
それは神の存在を信じることであり、「熱心に求めるものには報いてくださる方であると信」(ヘブル11・6)じることである。
それは、神の世界が法的世界であり、神はA博士のような混乱した思考の持ち主を祝福しないと信じることでもある。
もし私たちの信仰が三位一体の神、及び、キリストによる贖いの力に基づいていないのであれば、それは偽りである。
あなたの信仰の基礎は何ですか。
This article was translated by the permission of Chalcedon.
2016年2月2日
ホーム