聖書法綱要 8.権力と権威 (2)


オデュッセウスと息子テレマコスらは、求婚者を殺してから、奴隷女たちのほうに向かい、処刑した。テレマコスは12人全員の首に1本の縄をかけて吊るした。テレマコスは、処刑の理由を「女たちが…私と私の母に恥辱を与え、求婚者と寝たからだ」と述べた。1  女たちが罪を犯したのは、神に対してではなく、オデュッセウスとテレマコスに対してであった。これらの女たちが、その強姦者たち、もしくは恐らく誘惑者たちと関係を持ったことは、オデュッセウスとテレマコスにとって、自らが感じる「恥辱」ほど重要ではなかった。

オデュッセウスとテレマコスにとって大切なのは「法よりも自分」であった。「女は所有物であった。所有物の処分は、現在と同様、当時においても、善悪の問題ではなく、便宜的な問題にすぎなかった」。2

同じことは、初期のローマについても言える。父親は子供に対して権力をふるい、子供はその所有物であった。法は、人間を超えるものではなく、実質的に、その家族には適用されなかった。後の時代になると、国家がこの役割を引き継ぎ、自らが家族への権力者、国民の父及び法源になった。

どちらの場合においても、法は本質的にヒューマニズム的で、人間中心的であった。家長としての人、もしくは国家主義的指導者としての人が法を発布したので、法は全体主義的であった。これは、プラトンの『法律』において顕著に表れている。


「重要なのは次の点である。すなわち、男女を問わずすべての人の上に役人が立つべきである。本気であれ、冗談であれ、自らの個人的責任を取ろうとする心理的習慣を一切かなぐり捨てるべきである。…要するに、われわれは、個人として行動しようとしたり、その方法を習得しようとしたりする習慣を、自らの精神を鍛えることによって停止すべきなのである」。3

神の法が存在しなければ、アナキズムか全体国家主義のいずれかが、そのヒューマニズム的代替物になるのは論理的必然である。「レオポルド対ロエブ」に関するブロフィーのコメントは、この点を明快に説明している。

この判例の説明を読むと、社会の側の失敗またはむしろ混乱が明らかになってくる。社会は「レオポルド対ロエブ」のすべての取引において、彼らの教育において、及び彼らにとってさらなる教育となったこと、つまり裁判において、「なぜ彼らは殺人を犯してはならないのか」もしくは「なぜ彼らは罪意識を持つべきなのか」の理由をまったく提供しなかった。

社会が彼らに提示したものは神であったが、彼らは神の正体を見抜いていた。レオポルドに関するある医学報告書ではこのように記されていた。「彼は神が存在するという考えを棄てた。神が存在するならば、神の前に存在する何かが自分を創造したにちがいないからと」。このように考える中で、彼はアナロジー(類推)によって論じている…。「道徳律において、制裁は神から引き出される」と教えられていたので、これらの若者たちが「神を棄てることは、道徳律を棄てることに等しい」と結論したとしても、無理はなかった。
 
実際、社会は、それを彼らの―もしくは少なくとも、2人のうちで知性の高い方のレオポルドの―犯罪であると考えていると、彼は考えた。そして、理性によって自らの見解を導き出したので、死の脅威による感情的なプレッシャーのもとでも考え方を変えようとしなかった。この医学報告書では「首尾一貫性は自分にとって常に一種の神であると述べた」と記されている。

社会は、レオポルドについて、異常者と分類し、性的嗜好や想像力が反社会的であると断定する以外に何もできなかった。… 4

アナキズムか全体主義こそ、代替物である。プラトンの望みにしたがって「個人として行動しようとしたり、その方法を習得しようとしたり」しない人か、自分自身に対する絶対的法律である個人、これらこそが、ヒューマニズムが人間に提供する代替物なのである。

 

 

2015年4月9日



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