1.
一つのことができないからといって、教会の指導者が劣っているということにはならない。
たとえば、預言ができないから牧師として失格だとか。
預言ができる人は、できない牧師をリーダーとして非難することはできない。
たしかに、牧師が教える賜物がなければ問題である。
しかし、預言やら神癒などは、牧師には要求されない。
神は、クリスチャンが互いにそれぞれの役割をはたして神の国を作るように励ましておられる。
われわれは、それぞれ器官であり、互いに役割は異なる。
確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。
たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。
しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。
もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。
しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。(1コリント12・14-21)
われわれは、一人ひとり、なくてはならない部分である。
キリストの体である教会を作る器官として、自分がどのような賜物が与えられているか知ることは重要である。
説教家や、指導者、賛美歌を歌う人、預言者は、賜物が目立つ。
しかし、体にとくに名前がついていないが器官と器官を結ぶ部分、体を支える部分があるように、教会を維持するための賜物の人もいる。
役に立たない人はいない。
神の召しに従うということは、とくに伝道者になったり、牧師になることではない。
2.
私は、定義できないような賜物が与えられている。
セレモニーや組織運営が苦手なので、牧師には向かない。
神学者の賜物でもない。
教師なのか。
わからない。
しかし、何らかの役には立っていると思う。
普通の人が好んだり習慣としてやっていること、たとえば、誕生日を祝ったり、年賀状を書いたり、儀礼をきちんとやったり、お礼状を書いたり、時候の挨拶とか、愛想笑いとか、そういうことが非常に苦手である。
「暖かくなりましたね。」とあいさつされても、何を言っていいかわからない。
特別、変わったことは言わないが、毎日曜日説教をして、人々の教会生活を支える官僚タイプの牧師がいてもいい。というか、必要である。
しかし、今の激変期には、普通の人ができることができない開拓者のような偏った人間も必要かもしれない。
自分の上司は私を理解しなかった。
30年先を見ていた。
そして、今予測したとおりの時代になった。
主任牧師から「クリスチャン社会の法制度とか経済とか、そんな空想的なことを考えている君は不誠実だ」と言われた。
つまり、即戦力になれと。
私は、今のその時に役立つ人間ではない。
(軽くみられるのも嫌なのでいうが、)だからといって、成績が悪かったわけではなく、洗礼に導いた人の数は牧師の中で一番多かったし、若い人々のまとめ役として成功していた。
教会の需要に合わないので、去ることにした。
賜物は理解されないことがある。
しかし、そんなことはどうでもいいと思っている。
人の需要よりも、聖書的かどうかである。
航海には、近場を見る