二重の聖め
聖書律法における聖めとは2段階必要である。
「法的聖め」と「実際的聖め」である。
この概念を理解することは非常に重要である。
おそらくこれを教える教会は世界的に見ても少ないだろう。
そのためクリスチャンの間に混乱がある。
たとえば、ホーリネスには、「みなさんの中で救われる人が何人いるでしょうか。」と尋ねる牧師がいる。
クリスチャンになったら救われたのではないのか?
クリスチャンになったのに救われない人がいるというのはおかしな話ではないか。
「じゃあ、キリストのほかに何か救いの条件があるのでしょうか」と尋ねたくなる。
いいですか。
信仰を告白して洗礼を受けて、聖餐式に出ているならば、クリスチャンであり、全員救われるのだ。
で、そのようにしている人に対して「あなたは救われるのでしょうか。」と尋ねてはならない。
「いや、でも、行いが伴っていないクリスチャンがいますから」というか。
たしかにそうだ。
しかし、そんなことを言ったら誰が救われるのだろうか。
みんな大小の罪を犯しているではないか。
罪から完全に自由なクリスチャンがいるだろうか。
われわれが洗礼を受けたということは「法的に救われた」ということだ。
つまり、われわれは裁判で無罪を勝ち取った被告と同じ。
いくら自分に罪悪感があっても、法的には無罪である。だから、収監されない。
どんなに罪悪感があって法務省に問い合わせても「あなたはすでに無罪ですから安心してください」と言われる。
クリスチャンになったらたとえ自分に罪悪感があっても無罪だ。
永遠の救いにあずかっている。
しかし、だからといって「罪から完全に自由になった」ということではない。
第2の聖めが必要だ。
それは、「実際的に罪から自由になること」。
これには時間がかかる。
一生の課題だ。
しかし、われわれは法的に悪魔に対して勝利する権利があるので、罪の奴隷ではない。
だから、努力することによって徐々に悪魔の影響から解放される。
そのレベルは人によって様々である。
だから、ある人は初段、ある人は4級、ある人は十段、と個人差がある。
最初からクリスチャンホームで邪悪な影響を受けずに育った人は幸いである。
しかし、だいたいにおいて悪魔の世界において救われた人だ。
邪悪なものを多数かかえていて当然だ。
だから、クリスチャン同士が互いに罪を責めあっても仕方がない。
われわれは、「実際的な聖めの過程にある」。
歴史も同じ。
ある民族が聖められ、キリストの弟子になる過程は2段階である。
法的段階と実際的段階。
法的には紀元70年にキリストが主権を取られて宇宙の王になり、万物の贖いが「法的に」完成した。
聖書では「十字架の血によって、天地にある一切が神と和解した」とある。
法的に世界は救われたのだ。聖められた。
しかし、実際的にはそうではない。
クリスチャンの使命とは、各民族が弟子化されることである。
まず法的に救いの中に入ること。
そして、実際的に訓練を通じてその民族がクリスチャンらしくなること。
紀元70年以降、今の千年王国の時代において、各民族は、弟子化の過程にある。
いずれ全世界の弟子化が完成する。
そうすれば、聖めの完成である。
2013年1月29日
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