(1)
紀元70年にイエスが正式に天の王座に着かれてから、世界はキリストの王国となった。
そのため、キリストを信じる人々は王であり、勝利者であり、成功者である。
自分が成功者であるかどうかは、自分がキリストを信じているかどうかで決まる。
キリストの契約の中に入り(クリスチャンになり)、キリストに信仰によってつながっている限り、失敗はない。
たとえ失敗に思えることでも、必ず成功に変えられる。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8・28)
だから、現状を見て、即断すべきではない。
現時点で失敗者であるように見えても、クリスチャンは勝利者なのだ。
イエスが天地の王である以上、われわれは勝利以外できない。
たとえば、現在、事業で失敗して無一文になったとしても、クリスチャンは勝利者である。
神がそのような状態に導かれたのだから、勝利である。
自分が神の国のために行ったことはどのような形であれ、神が必ず用いてくださり、勝利のワンステップにしてくださる。
だから、「あの人はこうこうだからダメだ」というような判断を下してはならない。
金持ちか貧乏かで判断するなどもってのほかである。
そういう判断は、この世の人々がするものである。
そのような判断をする人は、「神の基準と異なる基準」を設定したので偶像礼拝者だ。
自分の仕事が失敗しても、病気になっても、子供が非行に走っても、それは、単なる勝利へのワンステップだ。
われわれのすべての行動や環境は、将来における地球全体において形成される神の国の「一つ一つの積み石」である。
無駄なものは一つもない。
(2)
パウロはこう答えた。「ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです。」(使徒26・29)
パウロは敵対する人々から訴えられ、犯罪者として鎖につながれていた。
しかし、裁判の席から「私のようになってください」と訴えた。
この世の基準からすれば、彼は失敗者である。彼を見ていた裁判官や王たちは成功者である。
しかし、パウロは彼らに向かって「自分こそがあるべき姿である」つまり「自分こそが成功者である」と言った。
パウロはキリストにつながっていたので、自分が王であると悟っていたのである。
自分を失敗者と見ている人は、視点を完全に変えなければならない。
聖書を信じない人々が何を言おうが関係ない。
聖書が「あなたは成功者である」と宣言しているならば、われわれは「はい。私は成功者です」と信じなければならない。
聖書が絶対基準なのであるから、それ以外の判断をしてはならない。
議論する必要もないし、そもそも、議論してはならない。御言葉が示されたら黙るしかない。
これをいかに徹底してできるか。
われわれが本当に自立した人間になれるかどうかは、この一点にかかっている。
(3)
あらゆる世的な議論を封殺し、聖書で最終判断を下すことができ、しかも、ブレない。
こういう状態になるには、訓練が必要である。
日本は集団主義の社会だから、一人だけ違う考え方、行動を取ることにはプレッシャーがかかる。
しかし、クリスチャンは断固として信仰的な判断を下し続けるべきである。
周りの1万人が反対しても、自分は聖書に基づいて行動すると誓って、それを祈りながら続けるならば、必ず道が開けて、周囲が自分の側に寄ってくる。
良い意味で我が強くなければならない。
(4)
進化論を信じる「クリスチャン」。
エリコの城壁が倒れたのは自然現象であったと信じる「クリスチャン」。
こういう人々は、世俗の意見に負けたのである。
聖書主義を貫けなかったのである。
判断を科学者にゆだねてしまったのである。
そこでもうだめ。人生は無益化した。
すべてが益と変えられるのは「神を愛する人々」だけである。
勝利の人生を送ることができるのは「神を愛する人々」だけである。
科学の学説を聞いてグラグラするような人が、人生を勝利できるなどと考えてはならない。
信仰に混ぜものをし、科学と信仰の折衷をするような人は契約から追い出される。
その人々にとって神は主ではない。自分が主である。
だから、行きつく先は、滅亡以外にはない。
リベラルもディスペンセーショナリズムも、妥協の産物である。
科学をすべて捨てろというわけではない。
聖書の記述と科学の学説がぶつかる場合、聖書を無条件的に選択せよということ。
「神は動物と人間を創造された」と聖書が言うならば、「進化してできた」と言ってはならない。
聖書の御言葉は、絶対命令であるから、それを超えるような権威を設定したならば、もはや契約の民ではない。
除名に値する。
(5)
力のある信仰とは、問答無用に神の力を信じる信仰である。
「…この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」
するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコ9・22-24)
てんかん持ちの子の父親のように「信じます。不信仰な私をお助けください」と叫ぶことができなければ、力のある信仰ではない。
「できるものなら」などというレベルを超越しなければならない。
われわれは神に対して「疑いをやめ、信じます」というべきだ。
神を疑うことは、この世のもっとも高い山よりも高い山に登ろうとするようなものであり、永遠に不可能な試みに時間を奪われることになる。
力のある信仰を持つには、問答無用で信じれるかどうかにかかっている。