真の社会的基礎は、三位一体の神を模範とし、神を恐れることにある



ギリシア文化は、明らかに宗教的であった。その主要な努力は、個人やその実現にではなく、むしろ都市国家及びその運命に向けられていた。体面を重んじ、その長い歴史は「恥の文化」に支配されていたので、1 古代ギリシアは、現代西洋文明というより、サムライの日本と似ていた。2

1 Eric Robertson Dodds: The Greeks and the Irrational (Boston: Beacon Press, 1957 [1951])を参照せよ。Doddsの“The Fear of Freedom(自由への恐れ)”の章(pp. 236-269)に注目。さらに、p. 31のコメント「幸せになることは危険であると人々は考えていた。」も要注目。

2 Ibid., p. 17. Doddsは、体面と公的な名誉が強調されていたことを示した。「ホメロスにとって、人間の最高善とは、静的な良心ではなく、時間と人々から尊敬を受けることを喜ぶことにあった。」

(R.J. Rushdoony, "The One and the Many", Thoburn Press, p.63.)

1.

キリスト教以前の古代ギリシアとサムライの日本の文化は、「恥の文化」であった。

つまり、人を恐れる文化であった。

神との契約関係を軸に文化が形成されるならば、人間関係は神との関係の次に位置する。

神がいない文化において、もっぱら重要なのは、人間である。

「人からどう思われるか。」「人とどうやってうまくやっていくか。」が主要な関心事になる。

だから、中国でも日本でも、体面や面子が重んじられる。

日本において、クリスチャンが学校や社会に入ってまず驚くのは、「人間を神とする人間関係」である。

先輩後輩の序列は、不可侵の絶対的価値である。

先輩の面子を潰すようなことをしたらその社会で生き残ることはできない。

運動部において後輩は先輩を神のようにあがめ、先輩は後輩を奴隷のように扱う。

奴隷であった後輩も3年生になると神になる。

米軍が日本軍を分析した結果、日本兵が勇敢なのは、仲間を恐れてのことであり、そのため、危機に際して自分の判断で行動することが不得手であることに気づいた。

記録によると、ソ連収容所でも、ある兵士は、ソ連兵の扱いよりも、収容所内での日本人同士の上下関係のほうがきつかったと述べた。

当初、収容所内に、軍の秩序が持ち込まれた。

兵卒は、上官のために奴隷のように働いた。

このような人間関係は、武士の時代の名残である。

クリスチャンが目指すべき社会とは、三位一体に倣うものでなければならない。

神は、三位の間で、本質において平等であるが、社会的に上下関係があった。

父・子・聖霊の3人の神は、本質において互いに平等であるが、子と聖霊は父の命令に従う関係になっている。

この三位の神の模範がない社会では、本質と社会的機能の区別がなされない。

社長と社員は本質において平等であるはずである。すなわち、社長の命も社員の命も等しく重要である。

社長が偉く、社員が下にいるのは、社会的機能のためである。

命令系統がなければ、人間は集団行動ができない。

社会集団は、命令と報告で成立する。

もし兵卒が将官に逆らい、命令を聞かず、報告もしなければ、軍隊は統一行動がとれず、戦争に負ける。

社長と社員の人間としての価値が平等でなければ、契約外の領域にまで社長が命令をし、社員が服従しなければならないということになる。

サービス残業、休日出勤、休日のゴルフ接待、個人の信仰の押しつけなどが当然のごとく起こり、社員は奴隷になる。

夫婦はそれぞれ人間の本質において平等である。夫の命が妻の命より重いということはない。

しかし、社会機能的な違いはある。

妻が夫に従わなければ、家庭の秩序は成立しない。

妻は夫に「職務上」従うべきである。

「尊敬できないから」というのは理由にならない。

子は両親に従う。

子が両親に逆らうならば、両親が持っている豊かな文化的・金銭的資産を受け継ぐことができず、人生を不毛にしてしまう。

神は、子が両親から信仰と文化を継承させるべく、「子は両親に従う」秩序を制定された。

本質的な価値と、社会機能的価値を混同すると、社会はバラバラな個人主義か、ガチガチの集団主義のいずれかに陥る。

個人的価値と集団的価値の両方が調和的に維持されるためには、三位一体の神の模範に従うべきである。

2.

クリスチャンが神を見失うと、人を恐れるようになる。

神に頼ることができなくなると、人を恐れ、対人恐怖に陥る。

現代社会が、対人恐怖症の人々で満ちているのは、神を見失い、神に信頼できなくなったからである。

進化論や様々な疑似科学のせいで、近代の人間は聖書信仰を失い、その結果、神への信頼を喪失した。

「自分の運命は、権力者に握られている」と考えるようになった。

しかし、聖書は「運命を握っているのは神である」と述べる。

主は、人の行ないを喜ぶとき、その人の敵をも、その人と和らがせる。(箴言16・7)

平和の基礎は、人間にではなく、神にある。

神がわれわれの行動を喜ばれるときに、平和が訪れる。

つまり、対人関係も、実は対神関係に依存している。

真の社会的基礎は、三位一体の神を模範とし、神を恐れることにある。

 

 

2015年10月2日



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