セオノミーの否定は永遠の刑罰に至る


セオノミーに逆らうことは、永遠の命を決定する。つまり、地獄に行く。

私を追い出した教会は、「旧約律法を現代に適用するなどという危険な教えを唱えた」と言って非難した。

旧約律法は、聖書の一部であり、神の御言葉である。

神の御言葉が危険???

聖書を危険と呼ぶ?

明らかに神に対するダメ出しである。

聖書を書いたのは誰か。

聖霊である。


聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。(2テモテ3・16)

このパウロが言う「聖書」とは、旧約聖書である。

当時まだ新約聖書は編纂されていなかったからである。

旧約聖書は神の霊感による。つまり、聖霊によって聖書は記されたのである。

これは、福音派のどの神学校でも教えることである。

聖霊が記された旧約聖書の一部である律法を危険と呼ぶことは、聖霊を冒涜することにほかならない。

聖霊がなさったことを危険視するのは、自分たちが聖霊に逆らっているといっているのと同義である。

だから、セオノミーを否定することは、聖霊に逆らう罪であり、永遠に赦されない。

永遠に赦されないので、永遠の刑罰にあう。

セオノミーに逆らう人が唱える教えは何か。

セオノミーの代わりに彼らは何を持ってくるのか。

「中立なる人間の法」である。

いわゆる「クリスチャンとノンクリスチャンの両方が納得する共通基盤の法」である。

このような考え方をするのは、フリーメイソンに騙されているからだ。

フリーメイソンは、「政教分離」など、聖書から離れて存在する誰もが首肯する「宗教を超えた真理がある」というサタンの騙しを人々に植え付けてきた。

この世界に中立など存在しない。

すべては、神の支配下にあるので、神の意見に合わないものは、すべて間違いである。

この世界に存在するすべてのものは、宗教的であり、神の創造世界である。

中立を認めた段階で、その人は、神の主権を否定している。

だから、セオノミーに逆らう「クリスチャン」は実はクリスチャンではない。

彼らは、「政治は中立の領域であり、そこに宗教を持ち出すな。それは政教分離の原理に逆らうことだ」という。

彼らは、政治の世界から神の主権を奪ったのである。

われわれ聖書的クリスチャンは、政治の世界であれ、経済であれ、音楽であれ、あらゆる領域を神の支配下におかねばならないという立場をとる。

なぜならば、あらゆる領域において神が主権者だからだ。

もしこれを否定するならば、いくらクリスチャンだといっても、実質ノンクリスチャンである。

心の奥底で「神に完全には支配されたくない」と思っている。

セオノミーを否定する人々は、ノンクリスチャンであることが暴露されるのである。

聖書的な立場が鮮明に表れると、それは試金石になる。

そこでその人は、いずれの陣営に属するか明らかになる。

セオノミーを否定した瞬間にその人が悪魔側に属する人であると明らかになる。

今の福音派がどんどんエキュメニカルの陣営(つまりイルミナティ)に取り込まれているのは、至極当然なのである。

なぜならば、もともと神の全的支配を期待していなかったからである。

(2)
本当のクリスチャンは、自分の内外にある一切を、神に支配していただきたいと思う。

完全に罪から解放されたい。

いかなる領域も自分の考えでやりたくないと考える。

パウロは、自分の自己分裂に悩み苦しんだ。

私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。(ローマ7・18-25)

心では、神の律法を喜んでいるが、実際の自分の行動はそれに逆らってしまう。

自分の肉は神の律法に逆らう。

ここから、罪を犯すクリスチャンには2種類いることがわかる。

1.心の底において、神の法を喜んでいるが、実際の行いは逆のことをする。

2.心の底において、神の法を喜んでいない。そのため行いがそれにふさわしいものになっている。

1はパウロと同じ本当のクリスチャン。

2は偽クリスチャンである。

本当のクリスチャンは、一生を通じて、自分の矛盾した姿に苦しむ。

復活の体を与えられるまでは、この苦しみは続く。

しかし、偽クリスチャンは、そういう矛盾はない。

なぜならば、神の法を捨てているから。

政治においては、神の法を適用しなくてもいいと開き直っている。

経済においては、世俗の学問でいいと思っている。

だから、心が分裂しようがない。

セオノミーを否定するクリスチャンは、自己矛盾に苦しむことはない。

パウロは、最後にこう述べた。

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8・1)

罪に苦しんでいる人は、罪に定められない。

逆に言えば、罪に苦しんでいない人は、罪に定められる。

つまり、政治や経済などにおいて、神の法を適用する必要はないと開き直っているクリスチャンは、罪に定められる。

セオノミーの否定は、永遠の刑罰に至るのである。

 

 

2014年12月23日



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