日本において天皇陛下はいかにイエス・キリスト的存在であったか
1.
竹取翁博物館の小泉芳孝館長によると、竹取物語は、イエス・キリストの復活を表す平安時代に作られた物語だそうである。
イエス・キリストの話を公に語れないので、物語として伝えたと。
https://www.youtube.com/watch?v=n8wfVrcmzSk&spfreload=10
以前からここで述べてきた「日本の昔話は、物部氏がイエス・キリストの話を密かに伝えるために作り出したもの」という仮説が実証されつつあると感じる。
いずれ浦島太郎も、イエス・キリストの生涯を表したものであることが明らかになるだろう。
2.
小泉氏の言われるように、天皇の即位に着る麁服(あらたえ)が、イエス・キリストの復活を示すのであれば、天皇とは、イエス・キリストの代理者である。
このような王を抱く日本が、神の国と認識されてこなかったはずがない。
https://www.youtube.com/watch?v=86QUe7KPbJY
『日本書紀』巻第九「吾聞く。東に神国有り。日本と謂ふ。亦聖王有り。 天皇と謂ふ。必ず其の国の神兵也」「吾聞、東有神國、謂日本。亦有聖王、謂天皇。必其國之神兵也。豈可舉兵以距乎。」 http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_09.html
『平家物語』「日本は是神国也、神は非礼を受給はず」 http://www.arc.ritsumei.ac.jp/opengadaiwiki/index.php/%E9%87%8D%E7%9B%9B%E8%AB%8C%E8%A8%80
『神皇正統記』「大日本者神国他。天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を伝へ給ふ。我国のみ此事あり。異朝には其たぐひなし。此故に神国と云ふ也。」 http://www.j-texts.com/chusei/rek/jinno2.html
『和文天狎弓羃痢抛E津豸ミ 「神州孰君臨,萬古仰天皇。」 http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/jpn15.htm
(以上、源義家氏が共有された情報である)
https://plus.google.com/+%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E5%AE%B6/posts
戦国時代といえば、日本歴史の中で最も無軌道な時代であった。己が利欲のためには、平気で親は子を殺した。子は親を背き、兄弟は互な反目し、
隙をみては討つ。君臣は時として仇敵となって戦うという下剋上、非道の世の中で道徳的には最低の時代であった。
この頃の天皇は後奈良天皇であった。
父の帝崩御の後、銭祚(天皇の位をつぐこと)されたが即位(天皇たる実を祖先と臣下に告げる儀式)の費用がなく、
十年後に周防の大守大内義隆の献上によって、ようやく即位されたという逆境のなかの天皇であった。
即位後四年目の天文八年(一五三九)から九年にかけて、日本国中は洪水と凶作にみまわれた。
その上悪役が流行、餓死者は巷にあふれ病死者は日毎に増加するという惨状となった。
幕府は微力で将軍とは名ばかり、餓民や病者を救済する力もなく関心もなかった。後奈良天皇は、この国民の惨状を見て、いたく御心痛なさったが、
貧窮の皇室にはこれを救う富も力もなかった。
そこで、奈良朝の聖武天皇の例にならい、紫の紙に金泥をもって般若心経を宸書し、三宝院の僧正義堯に命じて供養させ勅使を派して、
諸国の一つの宮に奉納させ天下万民の平安と、病魔の退散を祈念された。
その数は二十五ヶ国にも及んだという。
宸筆の般若心経の奥書きに、和風の漢文で天皇はこう宸記されている。
「ことし天下大疫、万民多く死亡におつ、朕民の父母として、徳覆ふ能はず、甚だ自ら痛む、ひそかに般若心経一巻を金字に写し義堯僧正をして之を供養せしむ。
こひねがはくは、ああ疾病の妙薬となさんことを、時に天文九年六月一七日」
この宸筆の般若心経は現在7ヶ国分が残っているといわれる。
毎日の御食事もままならぬ天皇の御生活にとって心経を宸書し、勅使を遣わして二十五ヶ国の一の宮に奉納されたことは、容易ならぬ御事業であった。
これを万難を排して敢行されたところに、天下万民の父母としての天皇の強い御自覚と御自愛があったのである。
これが日本の天皇の真のお姿である。
こうしたゆかしい精神は、皇室の道統となって代々の天皇に受けつがれてきた。
・
明治四十三年の春、いわゆる大逆事件が発覚した。
社会主義者幸徳秋水の門下生宮下太吉らは、社会主義実行のために天皇の暗殺を企てた。
十一月三日天長節の観兵式に臨幸される明治天皇の馬車に、爆裂弾を投じて暗殺しようと、宮下の仕事場である長野県下の明科製材所で爆裂弾をひそかに製造していた。
偶然のことから松本警察署に探知され、五月二十五日一味は検挙された。
六月から予審をはじめ、十二月一日幸徳秋水以下二十六名が大逆罪で起訴された。
翌十四年一月十八日、大審院の特別裁判において幸徳ら二十四名に、死刑の判決が下され、翌日になって、うち十二名は恩赦で無期懲役に減刑された。
これは明治天皇の思召しによったものである。
「午後内閣総理大臣侯爵桂太郎、判決書写しを携えて参内し、天皇に御座所に謁して事件の顚末を内奏す、
天皇具に太郎の奏する所を聴きたまいて軫念甚だ安からざるものあり、聖旨を太郎に賜いて特赦減刑のことを議せしめたまふ」
と、明治天皇の公式の御伝記には、こう述べられている。
「軫念」 とは天皇の御心または御心配をさす言葉で、明治天皇はこの判決が御不満であったのである。
この御伝記を調査、執筆した臨時帝室編修官の一人、渡辺幾治郎の談話(直話)によれば、天皇の真意はこうであったと、
ある侍従が渡辺編修官に語ったという。
この時、明治天皇は
「刑を半減するよう再議せよ」 と、桂首相にお命じになった。
天皇の真意は量刑の半減で、死刑から有期懲役刑に特赦することであった。しかし、社会主義者の徹底的撲滅を期していた政府当局は、
天皇の「刑の半減」を人数におきかえ、半数の十二名を死刑にしてしまう。
これは明治天皇の御本意ではなかった、とその侍従はひそかに渡辺編修官に語ったという。
司法権の独立をうたった憲法のたてまえから、天皇といえどもこの上、更に量刑を再議せよとも仰せられず、
不本意ながら同意されざるを得なかったという。
その頃、流布した歌がある。
罪あらば我を咎めよ天つ神 民は我が身のうみし子なれば
一時は明治天皇の御製だと伝えられた歌であるが、歌詞の品格のなさからして天皇の御製でないことは明白である。
しかし、明治天皇の御心中を忖度し、天皇のお気持を素朴に詠じたものとして、人口に膾炙したものであろう。
これは御歴代の天皇の御事積の、ほんの一端にすぎないが天皇の「大御心」とはどんなものであるかが、一応理解されるであろう。
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青年将校の天皇信仰
西田税 二・二六への軌跡 須山幸雄 著から
https://www.youtube.com/watch?v=PUG6r12_SlE
http://blog.goo.ne.jp/hanada1954/m/201501/1
(同上)
2016年5月2日
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