1.
人それぞれに割り当ての領域がある。
一般の人は、家庭を持ち、子供を「家庭人」及び「職業人」として育て、地上において神の国を世代を経るごとに拡大する使命を帯びている。
預言者や牧師、伝道師など、特殊な使命を帯びた人は、結婚せず、家庭を持たないこともある。
というのは、母の胎内から、そのように生まれついた独身者がいます。また、人から独身者にさせられた者もいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった者もいるからです。それができる者はそれを受け入れなさい。」(マタイ19・12)
今の世俗の価値観では、独身者イコール「まともではない人」と考える人もいるかもしれないが、聖書はそのようなことは教えられていない。
むしろ独身が奨励されていると解釈できる箇所もある。
私の願うところは、すべての人が私のようであることです。しかし、ひとりひとり神から与えられたそれぞれの賜物を持っているので、人それぞれに行き方があります。
次に、結婚していない男とやもめの女に言いますが、私のようにしていられるなら、それがよいのです。(1コリント7・7-8)
結婚するか、独身でいるかは、「ひとりひとり神から与えられたそれぞれの賜物」である。
結婚の時期も、相手もすべて神の御心ひとつであり、どんなに人間が頑張っても、結婚が使命でなければ実現しないし、逆にそれが使命であれば結婚に導かれる。
子供がいるか、何人か、なども「ひとりひとり神から与えられたそれぞれの賜物」であって、親が子供に対して「2人目はまだか」などとプレッシャーをかけるのは、聖書的ではない。
クリスチャンになり、献身の決意をすれば、すぐに、こういう日本人の考え方がまったく通用しないことに気づくだろう。
人間は、神の許しがなければ、100メートル先のコンビニにすらいけない。
二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。(マタイ10・29)
われわれが現在このようにして生活できるのは、すべて神の許しがあるからである。
「いや、コンビニくらいすぐ行けるでしょう」と考えているなら、その人は、まだ神のお取り扱いを受けていないのである。
「あの人は、あの年齢になっても結婚していないからまともではない」とか「子供がいないのは、自分の務めを果たしていない」といった「日本人の常識なるもの」が存在するのは、次のいずれかの理由による。
(1)あまりにも恵まれすぎた環境のもとで、何年も平穏に暮らし、この世界が神の摂理によって保持されていることを忘れたから。
(2)摂理によって保持されていることはわかっているが、それを頑固に認めようとしていないから。
世俗的な考えは、神と直面することによって粉々に砕かれる。
神によって自分が描いた人生の設計図をぐちゃぐちゃに破壊されない限り、われわれは「世の価値観」を持ち続ける。
3.
神が欲しておられる人材とは、皮一枚になった人である。
皮膚の下が空っぽで、その空洞が聖霊に満たされている人。
肉も骨もみんな取り去られている。
自分の計画、自分の願望、自分の主義主張、自分の考え、自分のプライド…を、試練の中で一つ一つ潰されて、すっからかんにならないと、神が用いやすい人材とは言えない。
神が特別に選んだ人ではない場合、神はある程度、自分の計画や世俗の栄光、肉的なプライドを実現させてくださる。
しかし、神が特別に選んだ人の場合、ぐるぐるといろんなところに連れて行かれ、自分のペースを徹底して乱され、思いもかけない道に導かれ、考えもしなかった人と出会い、絶対に別れたくない人と別れる。
イスラエルがカナンの地に入る前に、荒野をぐるぐると連れまわされたように、自分の意思とまったく真逆なことや無関係なことを延々とやらされる。
4.
信仰の世界は、世俗の人々が絶対に想像できない世界であり、それゆえ、われわれの思考や行動は彼らには理解できないだろう。
現象の世界の背後にある霊的な現実を理解する目は、このような体験を経ないと見につかないのである。