人生の総決算の時期にゼロからやり直せるか
(1)
草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。(イザヤ40・8)
ここで、自然が神よりも下に位置するという原理が確立される。
数学的に考えると神の存在は「無矛盾の定理」により、理論的に否定される、などという人がいる。
この理屈は、神を自然の一部とみなしているので不当である。
神は自然を超越しているのである。
数学の世界は、神が創造されたものである。
だから、数学で神を評価できない。
世界が創造される前に、神しかおられなかった。
神は、無から世界を創造された。
だから、自然を基準に神を評価することはできない。
神が第一原因なので、神は基準であって、裁かれるべき存在ではない。
「神は全能か?」という疑問は不当である。
「神を全能の基準とする」というのが正しい。
「神は罪を犯せない。だから全能ではない」という理屈は、神以外に基準を設定している。
神ご自身「が」善の基準、神「が」全能なのである。
「神は絶対者か?」という疑問も間違い。
神「が」絶対者なのである。
「神を信じるべきか」という疑問や悩みも不当。
「神は信じる以外にない」対象である。
(2)
人間は、神をひたすら伏し拝むしかない存在である。
なぜならば、人間は神に創造されたから。
「これこれが正しいと証明されたら信じてやるよ」というような態度は、永遠の刑罰に値する。
「選んでやるよ」的な態度は、滅びの子のそれである。
昔、殿様が通るときに、平民は土下座して顔を上げることが許されなかった。
「そんなの知ったことか」と言って、顔をあげたら、無礼者とバッサリ切られた。
それと同じで、神の御前で人間が顔を上げることなどできない。
この絶対服従の姿勢が保てないならば、(悔い改めない限り)地獄に落とされる。
(3)
われわれは、一生「ただひたすら伏し拝む」姿勢を貫くことを要求される。
老年になっても、一番大切なものを捨てるかどうか試される。
アブラハムはイサクを神の命令のゆえに捨てられるかどうか試された。
身近な人がこの試練に失敗したのを見てきた。
老年になって後継者を自分の息子に据えるために、正当な主張をする役員を蹴落とした人がいた。
その団体は、瓦解し、息子もだめになった。
なんでも握りしめて所有すると、失敗する。
手を開いてその上に載せて所有すべきだ。
つまり、いつ神に取られてもかまいません、と。
(4)
福音派の教会でも「すべてを捨てて主に従いましょう」と言われるが、もし本当にそれを信じるなら、とうの昔に再建主義になっているだろう。
しかし、実際は、ものすごい抵抗に遭う。
まずわれわれの主張を口に出したら速攻で追い出される。
「これまで主張していたことを変えなければならなくなる」と恐れるからだ。
しかし、言っておく。
「神の前でこれまでの業績など、全部ぶん投げろ」と。
「間違っていた!」と気づいたら、「そうです。間違ってました。今まで間違った教えを信じ、それに基づいて活動してきたことを悔い改めます」と言うしかない。
アブラハムがイサクを犠牲にしようとしたように、「積み上げたもの」「自分の人生そのもの」を神の御前に差し出すしかない。
握りしめて、頑固を貫き、横車を押すと自滅する。
捨てるならば「神の山に備えあり」で、神が損失を補ってくださる。
老年になって自分の立場を変えるのは、屈辱的であり、勇気がいるが、それこそ神が望んでおられることだ。
アブラハムが老年になってやっと子供を授かり、その子供を差し出すよう求められたのは、アブラハムに「全的献身」を求めるためである。
神はあえて「酷な」状況を作りだされた。
われわれは、人生の総決算の時期に、ゼロからやり直せるかどうかを試される。
契約の民の代表であるアブラハムにそれが起きたということは、われわれにもそれが起きるということだ。
2014年2月2日
ホーム
robcorp@millnm.net