物部氏と秦氏が復活し日本が復活する
古来、ユダヤ人は広く世界を旅行して、様々な地域と交易関係を結び、駐在員のような植民地を持っていたらしいです。そして、その間で働く巡回ラビのような人がいて、各地のユダヤ教会を回っていた。ラビ・トケイヤーの先祖はシルクロードのそのような集会に奉仕する教師だったそうです。
ですから、ユダヤ教思想がインドや中国にも入っていた可能性が高いです。
すると、ユダヤ教思想において、東は、一番レベルの高い地ですから、東の端にあった日本にパラダイスがあると考えても不思議ではない。
私は、バビロン捕囚後のユダヤ人がパレスチナに帰国せず、東に向かったのは、日本を目指したのだと考えています。
事実、ヨーロッパには、このようにユダヤ十部族が日本にいるという考えがあったようです。コロンブスは、ジパングには十部族がいるというので、デ・トーレスというヘブライ語のできるユダヤ人を同行しました。
十部族を探しているイスラエルの公的機関アミシャブも、「離散ユダヤ人はアジアに散り、その本体は日本に入った」と発表しています。
ですから、紀元前に日本にはかなり多数のユダヤ人が入っており、原始神道はユダヤ教であったとも考えられます。
このことについては、ラビ・トケイヤーが、著書において「日本に来ると、故郷に帰ってきたような錯覚に陥る」と記しています。
日本には、言葉をはじめ非常に多くのイスラエルと同じ風習があります。
アブラハムのイサク奉献の儀式が諏訪大社に残っています。
日本書紀によると、秦氏は、シルクロードにあったユダヤ系キリスト教国弓月国から来ました。
なぜユダヤ人は、日本を目指したのか。
それは、日本が「罪を許された者の楽園」と考えられていたからだと思います。
実際、初代教会のクリスチャンたちは、紀元70年のイスラエル崩壊のあとで、東に向かったことが確認されています。最終地点は不明ですが、エルサレムの教会の人々が、ローマの攻撃を避けて、ヨルダン川を越え、ペラという町に入ったという記録があります。
私は、初代教会の人々が十字架と契約の箱を持って、日本に入ったのではないかと考えています。そして、それが籠神社から伊勢神宮にまで運ばれた。
ですから、伊勢神宮の内宮のご神体が十字架であり、その地下宮に契約の箱があるといわれている。
日本は非常に不思議な国であり、たとえば、京都の稲荷神社の神輿のルートが、ヨハネ黙示録に出てくる7つの教会のルートと完全に一致しています。
http://kojiki.imawamukashi.com/05kosatu2/05inari04.html
京都は、十字架の形に作られており、頭の部分に船岡山があります。
船岡山には稲荷があり、稲荷はもともと十字架の首につけられていたINRI(これはユダヤ人の王)という文字からきているという人がいます。
徐福の出自は始皇帝と同じで、この民族はもともと西域にいた。
つまり、シルクロードをつたってやってきた西の民族である可能性が高い。
実際、大秦はローマという意味です。
私の推測では、秦王朝はユダヤ人の王朝ではなかったか。宰相呂不偉は「レビ」ではなかったか。
となると、徐福が日本に若い男女3000人を連れて日本にやってきたのは、日本にユダヤ王国を建設するためであったのかもしれない。
そして、日本の豪族物部氏は、徐福の子孫であり、秦氏とともに大化の改新まで日本を支配していた。
その後、1300年間藤原氏の支配が続くのであり、物部氏や秦氏は地下にもぐっている。つまり、裏に回った。
だから、裏神道を支配しているのは秦氏・物部氏である。
表面的にみると、日本神道は多神教だが、裏に回ると三位一神教。
伊勢神宮も、もともとは内宮・外宮のほかに伊雑宮がある。物部氏の記紀にあたる旧事本紀大成経では、伊雑宮こそが真の伊勢神宮であるという。
私は、これからの時代は、藤原氏の呪縛から物部氏や秦氏が解放され、本来の日本の姿に帰る時代になるのではないかと思います。
モーセに率いられたイスラエルが約束の地であるカナン(パレスチナ)に入ったのが、奴隷時代の後であったように、日本が復活するのは、米国の奴隷から解放された後ではないかと思います。
栄光を受ける前には必ず苦難がある、というのが聖書の主張です。
原爆は、世界の諸民族の身代わりとして受けた十字架であった。
その後、理不尽な米国による支配の70年。
バビロン捕囚が70年続いたように米国の奴隷支配も70年続くでしょう。
その後、日本が太陽の国としての栄光を受ける。
復活する。
そういう筋書きではないかと考えています。
本教の出口教祖は、このことを感じていたのではないか。
大本教の本部がある綾部には、物部の本拠地物部城(高屋城)があります。
2011年2月15日
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