三位の声を別々に聞く?2



三位の声を別々に聞く?に対する真摯なご返答と、ご教示、心から感謝しております。原語的にも的を得た解説で、大変参考になりました。あるブログの著者が、「最近、天父と聖霊とばかり話しているので、イエス様が寂しがっておられる感じがする。」とのコメントがあり、それに賛同する者がいることなどから、このような奇異、かつ三神論的なアプローチが、推奨されることに大変危惧を覚えております。なので、富井氏の指摘の通り、三位一体の神観が、単なる知識ではなく、機能的な理解がないと、異なる霊の声を聞く、という惑わしが起こりえると感じております。しかし、恐縮ながら、私たちの祈りの対象は最終的に父なる神様であることに異同はありません、しかし、と同時に、救い主イエス、助け主聖霊に対し、祈り求めることはクリスチャンとして、ごく自然な信仰の告白であり、また聖書的な祈りでははいかと考えておりますが、いかがでしょうか?またご指摘などありましたら、ご教示ください。改めて、精緻なご教示感謝し、伝道、教育の糧としてぜひ用いさせてください。有難うございました。

ご指摘のようなアプローチは、もはや三位一体ではなく、多神教ですね。

「富井氏の指摘の通り、三位一体の神観が、単なる知識ではなく、機能的な理解がないと、異なる霊の声を聞く、という惑わしが起こりえると感じております」

そのとおりだと思います。

神の霊だと思っているものが本当に神の霊かどうかは誰もわかりません。

唯一の判別の基準は聖書だけです。

聖書において三位の神は統一的に「一人として」行動されているので、それ以上の理解をする必要はないだけではなく、悪魔に利用され、次第に違う宗教に誘導される恐れがあります。

聖書における強調は、あくまでも「御父の栄光を現す従順な御子と人を助ける御霊」という点におかれているのであって、個々の神との関係は啓示外の事柄であると思います。

「聖書に啓示されていないことは、神に属し、啓示されていることは、人間に属する」というのが原則です。

私たちは、聖書を超えた神の世界に関する知識を得ようとすべきではない。

なぜならば、自然科学と違って、霊的世界に属することは、聖書啓示以外に検証の方法がないから。

この限界を超えてしまうと、神秘主義になり、悪魔に騙されるようになります。

「私たちの祈りの対象は最終的に父なる神様であることに異同はありません、しかし、と同時に、救い主イエス、助け主聖霊に対し、祈り求めることはクリスチャンとして、ごく自然な信仰の告白であり、また聖書的な祈りでははいかと考えておりますが、いかがでしょうか」

もちろん、御子と御霊への祈りは間違いではないと思います。なぜならば、御子も御霊も神だからです。

マリアや聖人への祈りは禁じられています。なぜならば、彼らは被造物だからです。

祈り求め、頼るべきは、もっぱら神おひとりですから、被造物に祈願することは偶像礼拝になります。

被造物に祈り、願い求め、しかも非難を受けていない箇所は聖書にはありません。

ただ、聖書においてイエスが「このように祈りなさい」と言われたオーソドックスな祈りは、「主の祈り」であり、それは、「御父に対して、御子の権威を用いて、御霊の助けにより」祈る方法です。

飽くまでも聖書の強調は、「祈りを通じての御父の栄光」にあります。

御子も御霊も、祈りを通じて御父の栄光を求めておられます。

私たちは、いつもあなたがたのために祈り、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。(コロサイ1・3)

あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。(マタイ6・6, 9)

天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。(エペ3・15)

そのため、私たちも、強調を「御父の栄光」に置くべきです。

一般的に、祈りの対象として御父を選ぶことが聖書的な祈りの方法だと思います。

 

 

2015年7月30日



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