人間教に合せる必要はまったくない


クリスチャンの学校制度は、「聖書を絶対的権威とする」という条件を、絶対的に死守すべきである。

世俗科学の人々は、「進化論を受け入れないとは科学的ではない」とか言ってくるだろうが、彼らは「人間理性こそ絶対的権威である」との信条を持つ異なる体系の人々なのだから、相手にする必要はない。

「いや、相手にしなければ、トンデモ呼ばわりされ、学校運営がやっていけませんよ。文部省の認可も受けられないでしょうし」と言うクリスチャンがいるかもしれないが、そのクリスチャンは除名に値する。

「聖書の絶対権威性」を否定するクリスチャンはクリスチャンではない。

ここで譲歩したら、キリスト教はキリスト教ではなくなり、最終的に滅んでしまう。

われわれは心構えとして、「世俗の異なる知的体系の人々に受け入れられる必要はまったくない」と硬く信じるべきだ。

信仰を貫いて「やっていけない」などということはありえない。

むしろやっていけなくなるのは、世俗科学のほうだ。

なぜならば、彼らは神の国の進展を妨害するからだ。

彼らが築き上げようとしているのは「人間王国」である。

彼らは、知識の土台が人間にあるというデカルト教の信者である。

われわれは、知識の土台を三位一体の神の自己認識に置く。

世界が創造される以前に神だけがおられたときにあった知識こそが、究極的知識である。

世界は、神によってのみ解釈されるべきであり、神によってのみ目的を与えられるべきである。

われわれの人生も、ことごとく神の目的を成就するためのものであり、われわれに固有に属する部分などありえない。

全的献身以外のいかなる姿勢も、不法であり、神の前で破棄すべきものである。

われわれが、人生のすべてを捧げ、しかるべき献身を行うならば、われわれは、ブルドーザーのように、反対する様々な霊的勢力や人的勢力を駆逐し、神の国を拡大することができる。

部分的献身などは、力にならない。

認識論から、存在論、倫理に関して、徹底して神に捧げ、聖書だけを基準とする体系を作り上げるならば、それに敵対する勢力はことごとく滅ぼされるだろう。

そして、その体系だけが生き残るだろう。

だから、妥協すべきではない。

しばらく辛抱していれば、必ずこちら側だけが生き残ることになり、こちら側のシステムだけが有効になる時代がやってくる。

人間教に合せる必要はまったくない。

 

 

2013年7月6日



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