来たるべき世において成功者になる2
(1)
妹の息子が東大在学中に司法試験に合格した。母親から聞くところによると、史上2番目の若さらしい。
高校時代、英語のディベート大会で優勝し、ギリシアで行われた世界大会に出た。
東大受験直前なので迷ったが、めったに体験できることではないので、参加した。
それもあってか、受験に失敗したが、合否のぎりぎりのところ(わずか0.05点とかの差)にいた。
駿台では成績がよかったので、学費免除の特待生であった。
東大法卒で司法試験に合格し、弁護士にでもなれば、まず社会的には文句のつけどころがない。
父親が私に期待したのは、こういった経歴であった。
見事に裏切った。
かつて有名な教会の有名な牧師のもとで働いていたときには、親戚も私にことあるごとにメッセージをするように求めてきたが、今ではそんなリクエストもない。
社会的に人々が納得がいくような「ステータス」をすべて失った。
いわゆる変人と見られてもしかたがない。
親戚には教師が多く、祖父母も教師、父親と母親も教師。叔父叔母も。
「学校の先生」という枠組みにも入らず、既存の教会の教職者でもない。
入りたくても追い出されるだろう。
教会で教えたら、すぐに排斥されるだろう。
そんな無駄なことやっても意味はない。
だからチャレンジすらしない。
あまりにも狂いすぎている環境の中でまともでいることは、狂人扱いされるということだ。
無駄だから、議論もしない。
狂ってしまって矯正のしようがない集団については、ただひたすらに崩壊を待つしかない。
(2)
今、仕事でうつ病に関するドストエフスキーやチェーホフ、ガルシンなどの文章を訳している。
文学書の文は難しい。産業翻訳は、定型があるからはるかに容易である。
ガルシンによると、うつ状態にある人は、自分の将来を悲観し、普通の生活や通常の環境に戻ることはできないと結論し、自分の生活を変えることはけっしてできないと確信する。際限のない罪責感を抱き、他人は自分の過去の過ちを赦すことができないと信じる。(Гаршин В.М. «Происшествие», 1878)
要するに、うつの問題とは「不信仰」の問題だ。
「悲観」「できない」「罪責感」「自分の過去を赦せない」…
悪魔に騙されて不信仰に陥っている状況そのものではないか。
うつ病に陥った人の言葉を、オストロフスキーが述べている。
「愛を探したが見つからなかった。人々は怪物を見るような目つきで私を見た。私の心の中を見ようとする人は誰もいない。同情する人、真心のこもった暖かい言葉をかけてくれる人もいない。人生はこのように冷たかった。私は悪くない。…この世に愛はない。求めても無駄だ」(Островский А.Н. «Бесприданница», 1878)。
自己憐憫の悪霊に完全にやられている。
自己憐憫の根底には、「自己義認」がある。
「私は悪くない。私が悪いのではなく、私を愛してくれない社会が悪い。世間が悪い」。
神を中心に世界を回すのではなく、自分を中心に世界を回そうとしているから、こんな言葉がでてくる。
まっとうな人間の言葉はこうだ。
「私は神の御前に罪人である。私は、社会や世間の人々を愛さなければならないのに、愛することができない。悔い改めて、できるだけ愛の人になるよう努力しよう」。
うつ病の根本には、「自己神化」「自己崇拝」がある。
解決は、悔い改めて、自分を低くし、神に赦しを求め、自分のためではなく、神と人のために生きることだ。
(3)
自分を神としてしまった人生は、虚無である。
教会で働いていると、こういう人がしばしばやってくる。
目がうつろ。しゃべりかたは暗く、同じことを繰り返す。
「どうしたらいいんでしょうか。」というものの、助言を聞いて生活を変える気はない。
決定的なところで間違っているから、対症療法ではむり。
頻繁にやってきて、こちらの時間を奪っていく。
神の国の働きを妨害するために送られてきた人である。
「自分を中心に世界を回す」発想を転換しなければ解決はまったくない。
自分を捨てて、神の国のために働き、「できる」と信じ、否定的な思いや思想をすべて捨てること。
こういう基礎的なことができなければ、何をやってもだめ。
人生を無駄にするしかない。
一度限りの人生を、ああでもない、こうでもない、と堂々巡りすることで無駄に使うしかない。
2014年10月2日
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