クリスチャンは真理の御霊を持っている
1.
紀元後30年頃、
「自分はユダヤの王である」
などと嘯く目障りな男だったナザレのイエス(※同じユダヤ人)を、
謀略により死刑に追い込みました。
この出来事は、2000年経った今でも、
キリスト教徒からの差別の根本的な原因なのであります。
十字架につけたローマ人ピラト総督は異邦人なので、ユダヤ人だけがイエスを殺害したわけではありません。
ユダヤ人差別の根本は、異邦人を動物扱いし、詐欺や堕落によって金を儲けようとする悪い行動が原因です。
2.
その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。(ヨハネ14・17)
ノンクリスチャンの特徴:
(1)真理の御霊を受け入れることができない。
(2)真理の御霊を見もせず、知りもしない。
クリスチャンの特徴:
(1)真理の御霊を知っている。
(2)真理の御霊とともに住む。
(3)真理の御霊はクリスチャンのうちにおられる
真理の御霊は、家族のようなものである。
一緒に住んでいる。よく知っている。心のうちにいる。
自分の家族が同じ家に住んでいてよく知っているように、御霊はクリスチャンと親密な関係にある。
クリスチャンは、一人で部屋にいるときに、そこに誰もいないと思ってはならない。
必ず御霊がおられる。
よく御霊によって祈っているならば、部屋の中に御霊がおられることが分かるはずである。
この御霊は、天地創造のときに、被造物を守っていたあの御霊と同じである。
地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。(創世記1・2)
この「動いていた」と訳されている言葉rachaphは「育児をするbrooding」という意味をも表す言葉である。
http://biblehub.com/hebrew/7363.htm
つまり、御霊は、地と空の上にあった大水の上を動きながら、育児をしておられた。つまり、地が人の住める場所になるまで育てていた。
世界の育ての親である御霊が、自分の部屋におり、一緒に生活している。
しかもわれわれの体の中におられる。
われわれがどこに移動しても、そこにおられる。
つまり、御霊はわれわれにとって家族よりも親しい存在である。
その御霊は「真理の御霊」である。
つまり、われわれに真理を教えてくださる。
真理を常にわれわれに示してくださる方が家族以上に親しい存在としてわれわれには与えられている。
それなのにどうして虚偽を信じることができるだろうか。
クリスチャンでありながら、いつまでもいつまでも虚偽を信じている人が、御霊の人である「わけがない」。
よく「あの先生は霊的だ」という評価を聞く。
霊的ならば、われわれの立場を理解するはずだ。
いつまでも、ポスト・ミレを拒否するはずがない。
御霊が自分の部屋に居住し、自分の体の中におり、しかも、ポスト・ミレを教えられないはずはない。
ポスト・ミレだけではなく、すべての正しい教理は、御霊によって「確認」される。
つまり、われわれがその正しい教理を聞いたときに、われわれとともに「納得させてくださる」。
だから、虚偽のままでクリスチャン人生を終わる人はいないのである。
その人は、実はクリスチャンではなかったのである。
御霊の内住がなかった。御霊がともに住んでいなかった。
なぜある人は、正統的な信仰から落ちるのか。
それは、御霊を持たないからなのだ。
ノンクリスチャンは、真理の御霊を受け入れず、見もせず、知りもしない。
ノンクリスチャンにとって、御霊とは、だれか他人の家族である。
その他人にとってはよく知っている父親や母親、兄弟であるが、自分にとっては未知の人間である。
会ったことも見たこともない。
ノンクリスチャンに「御霊は・・・」と言っても、「誰ですかそれ。」と聞かれるだけだ。
われわれの家庭教師である真理の御霊は、われわれにいつも教えてくださるが、ノンクリスチャンにとって御霊は、赤の他人である。
赤の他人であるから、ノンクリスチャンは真理をわきまえない。
ノンクリスチャンに教師はいない。
クリスチャンは霊的な真理を教えられるが、ノンクリスチャンは教えられない。
だから、クリスチャンとノンクリスチャンの知識や理解力には雲泥の差がある。
どんなにノンクリスチャンが知的で、学識があっても、基本的に盲目である。
クリスチャンが「世の光」となって、真理を示さなければならない。
それゆえ、真理の御霊を持つクリスチャンだけが、教師になるべきである。
神の国は、教育から始まる。
クリスチャンは子弟を、クリスチャンが教える学校に入れるべきだ。
闇の中にいる人々に教育を任せられない。
どの分野においても、クリスチャンが世の光となって周囲の人々を導くべきである。
啓蒙主義とは、「ノンクリスチャンこそが光を持っている」と教える新興宗教である。
聖書啓示なしでもやっていけると唱える。
世界中の人々がこの新興宗教に洗脳されてしまった。
御霊によらなければ聖書は読めない。
神の御心は御霊によってのみ理解できる。
だから、クリスチャンだけが真の教師である。
クリスチャンは自らが「世の光」として人を教導する立場にあることを自覚されたし。
3.
キリスト教徒であった物部氏の復活が期待される。
しかし、古事記や日本書紀のほかに、物部氏の古文書には聖書と反する教えが含まれている。
たとえば、竹内文書には、数百万年前のことが書いてある。
われわれは聖書の記述と矛盾するならば、それを拒絶すべきである。
参考にはなるが、教科書にはならない。
真理の御霊の霊感を受けているのは、66巻の新旧約聖書だけである。
日猶同祖論者は、教えの風に吹きまわされないようにしよう。
2016年5月4日
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