新約時代の経綸に基づくルカ21章24節の解釈
人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。(ルカ21・24)
この箇所は、かつて世の終わりにエルサレムが回復することを示していると考えていた。
しかし、イエスは、これが「この時代」のうちに起こると言われた。
まことに、あなたがたに告げます。すべてのことが起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。(ルカ21・32)
それゆえ、この箇所も紀元70年頃までに起きているはずである。
聖所の外の庭は、異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。測ってはいけない。彼らは聖なる都を四十二か月の間踏みにじる。(黙示録11・2)
この箇所は、ルカ21・24と同じことの預言である。
すなわち、エルサレムは、42か月(=3年半)異邦人の攻撃を受ける。
この42という数字は、マタイ1・17の「イスラエル民族の時代」と対応していると考えられる。
それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。(マタイ1・17)
イスラエルがアブラハムにおいて選ばれ、その支配が続いたのが合計で42代。
イスラエルの聖都エルサレムが異邦人に蹂躙されることは、イスラエルの滅亡を意味する。
42という数字によって、神はイスラエル民族の支配が終わったことを示されたのである。
事実、42か月は、紀元66年のユダヤ人の反逆に始まる一連のローマ人によるエルサレム攻撃を指していると思われる。
ネロ帝は、67年、ヴェスパシアヌス将軍率いる軍隊を反乱を起こしたエルサレムに派遣した。
68年までに北部属州の反逆は一掃された。
これ以降、ローマ人は、エルサレムの陥落に注意を集中するようになる。同年、ネロ帝が自殺し、ローマに権力の空白が生じ、混乱が起きた。
その後、ヴェスパシアヌスが自ら皇帝となり、秩序は回復した。ヴェスパシアヌスは息子ティトゥスにエルサレムの攻略を命じる。
ティトゥスはエルサレムを包囲し、70年までにエルサレムの城壁を破り、組織的に市内を荒らしまわった。この攻撃は、70年の神殿破壊において頂点に達する。エルサレムの制圧は70年9月に完了した。
67年のヴェスパシアヌスによるエルサレム反乱鎮圧からエルサレム完全制圧の70年9月までの3年半を「異邦人によって踏み荒らされる」とみるべきであろう。
フラウィウス・ヨセフスは、この攻囲戦で「110万人」が死に(そのほとんどはユダヤ人)、9万7千人が捕虜となり奴隷にされたと書く。(Wikipedia―エルサレム攻囲戦 (70年))
ここにおいて「人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ」が成就した。
では、「異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます」はどう解釈すべきか。
というのも、その後もエルサレムはローマによって支配されたからである。
ローマが滅亡した後でも、エルサレムは、様々な異邦人によって支配されてきた。
ユダヤ人が取り戻したのは、1967年のことである。
しかし、今のユダヤ人は、かつてのユダヤ人とは違う。
かつて、ユダヤ人は契約の民であった。
しかし、今のユダヤ人はイエスを十字架につけて殺した人々の子孫であって、契約から追い出された人々である。
だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。(マタイ21・43)
つまり、彼らは異邦人なのである。
今のイスラエルはロスチャイルドという自称ニムロデの子孫=バビロン人である者が作った国である。
真のイスラエル=契約の民は、クリスチャンである。
どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。(ガラテヤ6・16)
であるから、エルサレムが1967年にユダヤ人によって回復されたとしても、異邦人の時は続いているということになる。
となると、イエスがルカにおいて「すべてのことが起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません」、マタイにおいて「これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません」(マタイ24・34)と言われた言葉は成就しなかったことになる。
エルサレムは、紀元1世紀に回復したのである。
エルサレムは、契約の民の住む地になったのである。
なぜか。
紀元70年に、経綸(支配のシステム)が変わったからである。
それまでは、パレスチナが聖地であった。
ユダヤの第2神殿が神殿であった。
しかし、イエスが世界の王座を獲得された紀元70年において、神殿はもはや石作りのものではなく、クリスチャンの体になった。
聖地とは、全世界になった。
イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4・21-24)
紀元70年以降は、「あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時」なのである。
われわれは、ディスペンセーショナリズムの影響によって、タルムードユダヤ人の思考法に汚染されている。
タルムードユダヤ人は、旧約聖書の経綸をそのまま引きずっている。
だから、イエスが旧約聖書を成就されたことを認めない。
ディスペンセーショナリズムによって洗脳されたわれわれも、あたかも地理的なエルサレムが聖都であり、パレスチナが聖地であると誤解している。
しかし、新約時代になって、そのような聖俗の区別は撤廃された。
すべてが十字架で聖められ、聖化されたからである。
その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。(コロサイ1・20)
今や、全世界が聖地であり、キリストとクリスチャンの体が神殿である。
エルサレムの神殿が崩壊したことは、「もはや特定の場所を聖別された地と考える時代ではない」との神のメッセージである。
だからエルサレムという都市を特別視する必要はない。
その意味において、「聖都エルサレムの蹂躙」も終わった。
ユダヤ人と異邦人の区別も撤廃され、新たな区別は「割礼によらず霊によって生まれた人々=クリスチャン」とそうでない人々=ノンクリスチャンの違いである。
その意味において、「異邦人の時代」も終わった。
2015年8月9日
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