禁欲主義は究極の傲慢である
BPOの自己規制でますますテレビがつまらなくなっている。
これは、文化の幼児化であり、退歩である。
いろんなところから、「危険だ」とか「過激だ」という批判が来るという。
それで、一番無難な線を探すうちに、何も刺激的なことができなくなった。
こういう文化に対する姿勢は、「リスクのない世界こそが理想の世界」という間違った考え方に根差している。
共産主義は、このような思想である。
「競争を排除すれば、貧富の格差はなくなる」ということで、ソ連では、傘を作る会社を一社に限定した。
競争がないから、従業員の雇用は確保されるが、粗悪品が大量に出回ることになった。
自分の子供に、いつまでも門限を設定する親がいるだろうか。
20歳過ぎても8時に帰ってこいというならば、その子供はいつまでたっても大人になれない。
親は子供に自由を与え、リスクのある世界に徐々に慣らしていくことによって、独立させる義務がある。
共産主義とはこの逆をやるのだ。
自由を束縛して、リスクを減らし、安全を確保してあげることがいいことだと勘違いしている。
それでいつまでたっても自立できない若者が増える。
神が人間に期待しておられるのは、自由である。
自分の意思で物事を判断できるようになってほしいのである。
神はわれわれを大人にしようとしている。
それが愛である。
愛とは、相手の独立を願うことである。
いつまでも教習所内のコース運転だけさせたがる自動車学校などない。
基本を習得したら、路上を走らせたいと思っている。
なぜならば、路上を走らないと自由が得られないからだ。
これと同じように、神はわれわれが一人前になって、自由に好きなところに車で行けるようになってほしいと願っておられる。
神がわれわれに与えられる訓練とは、自由を与えるためである。
詐欺師に出会ったり、間違った教えについていって、痛い目にあったり、いろんなことを通じて、本当に自立的に物事を判断できるようになってほしいのである。
いつまでもバイエルどまりのピアノではつまらない。
ショパンやベートーベンなどの曲を自由に弾かせたいのである。
もちろん、自由には責任が伴う。
路上を走れば、事故を起こす可能性が高まる。
高速道路を走れば、死につながる事故を起こすかもしれない。
神が望んでおられるのは、大きな自由を手に入れるために責任が取れるだけの注意深さと技術を習得することである。
コーヒーや酒、たばこなどは、一歩間違えば死につながる。
大量摂取すれば、健康を害する。
しかし、それを通じてわれわれはより大きな楽しみを味わうことができ、ストレスの軽減が得られる。
神がコーヒー豆や、たばこの葉や、アルコールを創造されたのである。
人間が味わうためだから、それを禁止するのは、神の御心に逆らうことである。
神が「リスクと責任を伴う大人のための嗜好品」を与えられたのに、それを全面的に禁止する動機は、「神よりも高くなりたい」と願う気持ちである。
これは、悪霊からくる。
悪霊は禁欲が好きである。
なぜならば、自分が神よりも高い条件を設定することによって、ライバルになるから。
神よりも尊いものと呼ばれたいので、過剰な禁止をしたがるのである。
しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。
それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、
結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。(1テモテ4・1-3)