人事を尽くして天命を待て
(1)
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。(ピリピ4・6)
「思い煩い」つまり「心配」は、偶像礼拝である。
なぜならば、人間は、神のしもべであり、神の言うことを一瞬でも疑ってはならないからである。
一瞬でも疑ったときに、われわれは、神の領域(契約)の外に出る。
疑いという行為は、「神の上に立つ」ことを意味するから。
神を試すことになるから。
われわれ人間には、「忠実」以外に神に対する態度はない。
神はわれわれの創造者である以上、絶対的権威であり、われわれには神の上に立つ瞬間があってはならない。
神が「心配するな」と言われた以上、「心配する」という行為は、神の上に立つことである。
だから、契約関係は崩れる。
神と人とは主従関係、しかも、絶対的主従関係である。
「心配する」という行為を行ったときに、この主従関係は崩れ、われわれが主人になる。
われわれ絶対的従者は、神が「心配するな」と言われたら、四の五の言わずに「はい。わかりました。今後一切心配しません」と断言すべきだ。
そして、「あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」。
不安になったら「願い事」をせよ。
祈れ。
祈る時には、必ず「感謝」せよ。
感謝しつつ、願え。
祈ると、答えが祈りの中で示される。
それは御言葉である場合が多い。
だから、聖書をよく読んで御言葉を心に刻む必要がある。
ひとたび答えが祈りの中で示されたら、疑うな。
(2)
アサはその神、主に叫び求めて言った。「主よ。力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたにあっては変わりはありません。私たちの神、主よ。私たちを助けてください。私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大軍に当たります。主よ。あなたは私たちの神です。人間にすぎない者に、あなたに並ぶようなことはできないようにしてください。」(2歴代14・11)
「力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたにあっては変わりはありません」。
私は、自分の祈りだけで、一国を倒すことができると考えている。
なぜか。
神が一国を倒すことがおできになるから。
人間にどれだけの力があるかは関係ない。
ある人に1億円の大借金ができたとする。
自分と友人のA氏は、その人に多大な恩義があるので、その借金の返済を助けたいとする。
自分の銀行口座には預金が1万円しかないとする。
他方、友人のA氏には9千9百9十万円あるとする。
神の助けなしで考えた場合、どちらが返済可能性が高いか。
もちろん、友人のA氏である。
しかし、神の助けがあると考えれば、どちらも同じ可能性がある。
なぜならば、神には無限のお金があるから。
神が働かれるならば、自分の口座にもA氏の口座にも、一瞬で1億円になるように満たすことがおできになる。
われわれが強いからできるのではない。
われわれが弱いからできないのではない。
むしろ、われわれが弱いほうが神の御業が顕著に現れる。
1万円しかない自分が助けたのと、9千9百9十万円持っているA氏が助けたのとどちらがインパクトが強いだろうか。
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」と言われたのです。(2コリント12・9)
神はわれわれをあえて弱い状態に留めるものである。
なぜならば、恵みが現れやすいから。
この世の考え方は、「強い者が勝つ」である。
しかし、聖書の考え方は、「弱い者が神の力で勝つ」である。
だから、われわれの側で「強くならなければ失敗する」と考える必要はない。
「え〜!祈りで邪悪な中国を倒す?気違い沙汰でしょう!」という人は、神を知らない。
神の力を知らないから、人間に頼る。
こういう人は、過剰に学歴や才能、能力、地位に頼るものである。
(3)
以上と矛盾するようだが、われわれは力をつけなければならない。
われわれは、政治的・経済的・社会的力をつけなければならない。
なぜならば、地を従えよとの命令があるから。
「神は弱い人に働かれるのです。だから弱いままでいいのです」というのは間違い。
われわれは労働が命令されている。
支配も命令されている。
現実世界を、神の国に変える責任がある。
塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。(ルカ14・28)
「tomiさん、クリスチャンは、信仰だけでやるのです。現実的な方法はどうでもいいのです」という人がよくいるが、イエスはここで「現実的に費用計算せよ」と言われている。
われわれの「信仰」とは、超自然的であると同時に自然的である。
ここでも、「6プラス1」の原理が働いている。
つまり、「6日働いてすべての仕事をし、1日を神にゆだねよ」である。
われわれの労働は、きわめて現実的でなければならない。
仕事を完成させるために必要な人員と費用を計算し、無謀な賭けをすべきではない。
しかし、われわれは「日常的」であると同時に「超常的」でなければならない。
最後の1日を神にゆだね、超自然的なパワーを発揮していただくのである。
祈りと同時に活動も必要。
神癒を信じるあまりに、医者に行くことも、薬を飲むこともやめてしうのは、信仰ではない。
自分でできるだけのことをすべてやった後で、神は働いてくださる。
「人事を尽くして天命を待て」である。
2014年1月28日
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