このまま悔い改めなければキリスト教は死滅する
近年、教会によってひどい目にあわされたクリスチャンと知り合うことが増えている。
めちゃくちゃな方法で貶める。
教会堂を奪うために、盗聴器を仕掛ける宣教師とか。
教会建設が終わった段階で中傷して牧師を追い出す教団とか。
私も二度そんな目にあった。
なぜこんな状況になったのだろうか。
神への恐れの欠如である。
ではどうして神を恐れることがなくなったのか。
それは、もともと違う神を信じていたからなのだ。
「あなたは愛されるために生まれてきた」などというスローガンが生まれるのは、もっぱら神を利用の対象としてしか見ていないからだ。
彼らのキリスト教において、人間が主人で、神は従者である。
神は人間の幸せに貢献するために存在するのである。
だから選びの教理を受け入れられない。
神が予定されたなどと考えたくない。
人間が神を選び、神を任命する。
自分の幸せのために。
七福神と変わりないものを作り出した。
今の教会になぜディスペンセーショナリズムがはやっているかというと、こういう神観を補強してくれるからだ。
ディスペンセーショナリズムでは、クリスチャンは神の法に縛られない。
法を破っても、裁きはない。
まったく聖書からかけ離れた教えを信じている。
聖書に忠実ではないから、聖書研究を嫌う。
「聖書を学ぶと暗くなります」「頭でっかちのクリスチャンになってはいけません」「神学は不要です」という。
聖書によって自分の考えを矯正されることがいやなのだ。
本当のクリスチャンは、聖書の書いていることを非常に重視する。
一言一句にこだわる。
なぜならば、神の御心から外れることを恐れるからだ。
しかし、今の教会では、「細かいことを気にするな」「聖書にこだわることによって愛を失ってはならない」と詭弁を弄する。
「パリサイ人は、律法にちまちまとこだわっていた」と。
違う。
パリサイ人がこだわったのは律法ではなく、「言い伝え」である。
イエスは、「あなたがたは、先祖の言い伝えにこだわり、聖書を無視している」と非難された。
この「言い伝え」なるものは、ミシュナーと言ってバビロン時代に現地の思想に影響を受けたユダヤ人が作り上げた人間の掟である。
これは口伝であったが、のちに成文化されタルムードになった。
タルムードにおいてイエスは裏切り者と定義されている。
つまりイエスが非難されたのは聖書ではなく、サタンの掟である。
イエスは律法を尊重された。
律法を尊重されたがゆえに十字架にかかられた。
「律法なんてちまちま守る必要はない」と言われたのであれば、十字架にかかる理由が失われる。
イエスは、人々が負っている律法の呪いを身に受けるために十字架にかかられたのだ。
ディスペンセーショナリズムにおいて、律法は敵である。
だから、ディスペンセーショナリズムは、実質、タルムードユダヤ教である。
こういう悪魔側の教えが教会に入り、支配しているので、教会がカルト化した。
カルトの教会でひどい目にあったとしても、不思議ではない。
伝染病の患者であふれかえっている病院に行って感染しても不思議ではないのと同様に、カルトの教会に行って悪魔的な扱いを受けても不思議ではない。
教会は、換骨奪胎された。
牧師は、聖書を重視せず、教勢だけを気にかけている。
だから、正しいことを主張する人が邪魔である。
追い出すためなら、中傷、いじめ、噂の流布など、汚い手を平気で使う。
若い信徒の将来などどうでもいい。学生を動員して、「伝道」活動にこき使う。
質のよい有能な信徒を奪われないために他教会の信者との結婚を嫌う。
神への信頼がないから、他の人に利益を与えることを損失だと考える。
与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。(ルカ6・38)
2015年1月6日
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