新約時代の経綸に基づくルカ21章24節の解釈3



すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。
神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。それともあなたがたは、聖書がエリヤに関する個所で言っていることを、知らないのですか。彼はイスラエルを神に訴えてこう言いました。
「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」
ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」
それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。
もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。
では、どうなるのでしょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。
こう書かれているとおりです。「神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。」
ダビデもこう言います。「彼らの食卓は、彼らにとってわなとなり、網となり、つまずきとなり、報いとなれ。
その目はくらんで見えなくなり、その背はいつまでもかがんでおれ。」
では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。
もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。
そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。
そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。
もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。
初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。
もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、
あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。
枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。
そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。
もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。
見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。
彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。
もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。
兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、
こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。
これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」
彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。
神の賜物と召命とは変わることがありません。
ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、
彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。
なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。
ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。
なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。
また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。
というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ11・1-36)

新約時代の経綸は超民族的である。

旧約時代のように「ユダヤ人」と「異邦人」の区別はもはや存在しない。

新約時代の区別は、「クリスチャン」と「ノンクリスチャン」である。

それならば、パウロはなぜローマ11章でユダヤ人に特別な意味を与えているのか、という疑問が生じるだろう。

ユダヤ人は、選民としての地位を失ったが、それでも先祖のゆえに神に愛されている。

すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。…

彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。

新約時代において「聖い動物」と「汚れた動物」の区別が撤廃されたように、「ユダヤ人=聖別された民」と「異邦人=汚れた民」という区別はもはや存在しない。

ユダヤ人に特別な権威や権利、世界を支配する地位などが与えられているわけでもない。

そういったものは、今やクリスチャンに与えられている。

だからといって、ユダヤ人と非ユダヤ人の聖書的違いはないかというと「ノー」である。

「父祖のゆえに、愛されている」「異邦人の救いのためにかたくなにされている」とパウロははっきりと述べている。

個人についてそうであるように、神は一度救いに選んだ民を、最終的に滅ぼすようなことはなさらない。

父祖において救いに選ばれている民族である以上、神の愛を受けており、いずれ回復する。

しかし、「選民としての地位」が復活するわけではない。

ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの間に、一級市民と二級市民の区別ができるわけでもない。

クリスチャンホームで育った人のことを考えてみるといい。

Aというクリスチャンの家庭で育ち、幼児洗礼を受け、キリスト教の教育を受けた人がいるとする。

Aさんは、長い間信仰を失い、自堕落な生活をしていた。

しかし、信仰に目覚め回復し、教会に再び通うようになった。

さて、教会において、Aさんは、クリスチャンホーム出身者だからということで、特別な地位が与えられるだろうか。

否。

教会は、Aさんを、他のノンクリスチャンの家庭で育ったクリスチャンと区別せずに扱うだろう。

Aさんは、選びのゆえに、神に愛されている。

だから、必ず信仰を回復する。

それは、神の一方的な恵みである。

Aさんは、神に愛された人であるが、しかし、だからといって、他のクリスチャンと特別な地位にあるとか、特権があるとか、教会において指導者になるとか、そういうことはない。

ユダヤ人も同じである。

先祖のゆえに愛されているが、もはや選民ではない。

「愛されている」という意味で「選ばれている」と言えるかもしれないが、しかし、旧約聖書におけるような「特別な扱い」はもはやない。

だから、ユダヤ人が救われても、キリスト教界において指導的な地位につくべきだということはない。

ましてやシオニストのように「ユダヤ人は世界を支配すべきだ」などということもない。

ユダヤ人がパレスチナの土地に帰ってきたのも、選民だからではない。

一つの民族として、古巣に戻ったということでしかない。

エルサレムがもはや聖都ではなく、イスラエル国がもはや神の国でもないように、そこに住んでいるユダヤ人は特別な民だから住んでいるのではなく、ロスチャイルド・イルミナティの計略によって人為的に集められたのである。

「ユダヤ人」と「異邦人」という構図はもはや存在しない。

あるのは「クリスチャン」と「ノンクリスチャン」である。

今日、選民としての特権を与えられているのは、クリスチャンである。

クリスチャンには、世界を支配する権利と権威がある。

クリスチャンは、申命記の約束が適用される。

つまり「御言葉に従うならば、祝福され、地を従えることができる」という。

 

 

2015年8月11日



ツイート

 

 ホーム

 



robcorp@millnm.net