宗教をバカにする人は、自分自身が宗教に依存していることに気づいていない
1.
科学は、反証の可能性を常に残さねばならない。
従来の学説を否定するような論文が現れたら、それを公平な目で審査しなければならない。
門前払いをしてはならない。
門前払いをするような科学は、科学ではなく、宗教である。
2.
科学は、主に帰納法に基づく知識の獲得の方法であり、宗教は、主に演繹法に基づく知識の獲得の方法である。
帰納法は、データを集めて、仮説を立て、法則性を導き出し、理論化する。
たとえば、医者は、帰納法的認識論に基づいて病気の原因を探る。
MRIや問診などでデータを集め、何が症状を引き起こしているのかを調べ、病名を特定する。
演繹法は、教条がまず最初にあり、それを前提として推論し、個別・具体的な知識を得る。
たとえば、「神は無から世界を創造された」「全世界は神の支配のもとにある」という2つの教条を前提とし、「被造物である人間も神の支配下にある」という結論を導き出す。
3.
宗教や世界観は、帰納法的な推論だけでは、築き上げることが不可能である。
なぜならば、この宇宙にはデータを集められない領域が無数に存在するから。
たとえば、死後の世界についてデータを集めることはできない。
蘇生した人の死後の世界についての証言が、それが本当に死後の世界についてかどうか確認する術がない。
単なる脳内の生化学的物理的変化に起因する幻想かもしれない。
人間は、常に総合的に世界を見ている。総合的に見ないと生活できないから。
数々の前提を組み合わせて演繹的に推論しながら生活している。
学業の成績、職歴、就職試験の結果といったデータだけで、人を採用する企業はない。
面接を行い、志願者の人柄や性格、印象などを総合的に判断して採用する。
データのみに依存する科学(経験科学)は、たとえて言えば、大きなチーズに穴をあけてその部分だけを食べるようなものである。
科学だけに頼る人は、いつまでたってもチーズ全体を食べることができない。
チーズ全体を食べるには、宗教や世界観が必要である。
だから、人間は、みな「不可避的に」宗教家なのである。
世に言う「宗教家」とは、その自分の持っている世界観に特定の宗教の名前がついている人にすぎない。
4.
宗教をバカにする人は、自分自身が宗教に依存していることに気づいていない。
日々の生活を科学的知識だけで暮らせる人などいない。
誰でもなんらかの「無根拠な前提」つまり「信仰」に基づいて生活している。
「死後の世界なんてない。死ねばすべて終わり。」と主張する人の根拠はなにか。
「死後の世界の情報」は、科学では「原理的に」得られないので、根拠などない。
だから、彼は「宗教家」であり「信者」である。
2018年10月27日
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