聖書的キリスト教もヒューマニズムもいずれも循環論である
以下の「先験的議論」というジョン・フレームのヴァン・ティル弁証論についての解説は興味深い。
http://frame-poythress.org/transcendental-arguments/
インマヌエル・カント以前の認識論は、経験論(empiricism)と合理論 (rationalism)及びトマス・アキナスの「理性と感覚経験の組み合わせ」による思考方法に支配されていた。
しかし、これらの認識の方法では袋小路に入って抜け出せなくなる。
たとえば、1億回コップを手放す実験をして「コップは下に落ちる」と結論を出しても、それがその実験者個人の個人的体験ではなく普遍的な法則だとどうして言えるのか。1億1回目に同じ結果が得られるとどうしてわかるのか。
つまり、個別の経験を普遍化することがどうしてできるのか。
この「個人的経験」という限界を突破するために、カントは「超越論的主観transzendentales Subjekt」という考えを編み出した。
個人的経験を超越して「普遍的な知識を獲得できる」意識主体を想定した。
それは「経験的自我の根底に向かう哲学的反省によってはじめて明らかになる意識の本質構造」であるという。(世界大百科事典)
https://kotobank.jp/word/%E8%B6%85%E8%B6%8A%E8%AB%96%E7%9A%84%E8%A6%B3%E5%BF%B5%E8%AB%96-327505
この普遍的な意識主体を想定することによって、科学の可能性が保証された。
カントはさらに、その超越論的主観が世界を恣意的に再構成することすら許した。
ここで、人間には神の啓示によらずとも知識を得られる道が開かれた。
それまでは「神はこう言われる。だからそうなんだ。」と納得してきた人類が、「超越論的主観が、科学的研究の結果、こう結論した。だからそうなんだ。」と言うようになった。
クリスチャンに意見をする人でよく「悪霊の憑依など存在しない。これは純粋に精神病である」と言う人がいるが、彼は神の啓示よりも、超越論的主観の意見を高い権威として尊重している。
カント以降、この超越論的主観によって世界は次々と再編されていった。
美術の分野では、画家が自然の再構成者となり、抽象画が生まれた。
対象を再構成する権威が画家にあるという。
ヒューマニズムという新しい宗教が誕生した。
主権者は「超越論的主観」である。
自然も国家も政治も経済も芸術もすべて、人間のために存在し、人間にとって役に立たなければ切り捨てられた。
聖書的キリスト教が「超越者としての神を前提とした循環論」であるように、ヒューマニズムは「超越者としての人間を前提とした循環論」である。
「なぜ神は存在すると言えるのか」という疑問に対して聖書的キリスト教は「それは聖書において神が『私はある』と言われたから」と答える。
「神の存在は論証されていない」と反論するヒューマニストに対して「神の言葉は前提であって疑問を挟む余地はない」と聖書的キリスト教は答える。
そして、逆に「なぜ論証によって神の存在を証明しなければならないのか」と尋ねると「人間が認識において最終決定権を持つからだ」とヒューマニストは答える。
「どうして人間に認識における最終決定権があるのか」と尋ねると「そのように人間が決めたからだ」と。
「そのように決める権利はどこからくるのか」と尋ねると「それはヒューマニズムの前提であって論証できない」と答える。
聖書的キリスト教もヒューマニズムもいずれも循環論である。
聖書的キリスト教のほうは、循環論として優れている。
なぜならば、「神が万物を創造した。だから神は認識における最終決定権を持っている」と主張するのに対して、
ヒューマニズムは「人間は万物を創造したわけではない。しかし、人間は認識における最終決定権を持っている」と主張するから。
どちらの循環論を選択すべきかは、自明である。
2016年7月24日
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